・大峪城は戦国時代に絵中国守護代の神保長職によって築かれたとされます。その後の詳細は不詳ですが、天正13年に発生した富山の役で富山城に籠る佐々成政を攻略する為に、白鳥城を本陣とした豊臣秀吉がその支城として城郭の修築を行っています。
城将は元々白鳥城に詰めていた前田利家の家臣である片山延高と岡嶋一吉が担っています。成政が敗北すると、引き続き片山延高が城主の任を担っています。成政が秀吉の御側衆になった後も、成政を慕っていた旧臣達が蜂起する可能性があった為、引き続き警戒が続けられたようです。
天正15年に成政が九州征伐で大功を挙げ肥後国一国が加増され越中国を離れると、慶長2年に前田利家に命じられた延高は呉服山(白鳥城?)に入っています。しかし、白鳥城は山城だった事から強風被害に悩まされ、結局、平野部にあった安田城に遷っています。大峪城の同行は記録にありませんが、延高の家臣が詰めていたと思われます。
延高は1万石を知行する重臣として重きを成しましたが、野心家だったらしく利家からは信任を得る事が出来ず、慶長4年閏3月3日に利家が死去した際、遺言で「一片山伊賀事、身上ヨリ大氣ヲ本ト仕者候ノ間、自然ノ刻ハ謀反スル事可有之候、言葉ニモ念頃ノ體ヲ致シ、油断有間敷候・・・・」と記されており、その7日後、跡を継いだ前田利長が家臣である石川左源太と松田四郎左衛門に命じて、延高を暗殺しています。
大峪城には代官が起これたとも云われますが、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いの前には廃城となっています。大峪城は旧五福小学校が主郭で約38間四方、南西と南東の隅には櫓、東には二之郭がありました。現在は高低差による郭の形状は確認出来ますが、多くの遺構は学校の敷地として利用した際と宅地化により消失しています。
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