・文化3年と文化4年にロシア帝国から日本に派遣されたニコライ・レザノフは幕府に対して開国通商を求めたものの、拒否された事から、部下に命じて樺太や択捉の日本側の拠点を砲撃しました。
文化5年にロシア軍は撤退したものの、幕府は国防体制の強化の必要性を感じ、各藩に海岸防衛を指示、文政8年には「外国船打ち払い令」が発令されています。
嘉永3年6月11日、加賀藩の命により海岸調査の為に金谷多門等数名が当地に到着すると、放生津の町年寄2人が台場建設の場所の選定にあたり、現在の放生津八幡宮の境内に定め、工事の為の縄張りが行われています。
同年には工事が完了し、規模は正面42間4分(76m)、西面9間2分(17m)、東面12間4分(22m)、高さ10尺(3m)、翌年4月23日には加賀藩12代藩主前田斉泰が視察に訪れ、放生津八幡宮にも参拝したと記録されています。
嘉永4年には加賀藩の鈴見鋳造所が建設され、大筒や鉄炮、弾薬の製造が開始されています。
ただし、大筒が放生津台場に搬入、設置された形跡が無い事から未完成だったとされ、当然実戦で利用されたとの記録もありません。
以前は台場跡の混戦が残っていたようですが、現在は正確な場所を特定する事が難しいとされ、一般的には放生津八幡宮本殿背後に設けられた「奈呉之浦」の石碑が建てられている土盛が土塁跡とされます。
富山県:城郭・再生リスト
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