・太田本郷城は元亀3年に上杉家の家臣で、越中国松倉城の城主である河田長親が越中一向一揆衆の襲来に備えて陣を整備し、天正元年に築いた「向城」が当城の事だと推定されています。
河田家は藤原家の後裔を治承する氏族で、長親は近江国の一土豪の1人だったと思われますが、永禄2年に行われた上杉謙信の2度目の上洛の際に才能を見出され、謙信の側近として重用され、特に越中国侵攻の総司令官的な立場となっています。
長親は数々の功績を重ねた事から、越中国太田下郷を与えられ、天正2年には今泉城を修築し、代官を置いて周辺を支配した事から、当城は今泉城の「向城」と推定されています。
天正6年に謙信が死去すると越後国内で抱き簿な内乱が発生し、長親は上杉景勝、上杉景虎両陣営からは距離をとり、越中国に侵攻した織田勢の対応に追われましたが、多くの離反者が続出し、津毛城が織田勢の手に落ちると上杉勢は太田本郷城を放棄し、今泉城に兵を結集されています。
無人となった太田本郷城に入った織田勢は拠点の一つとして利用し、月岡野の戦いで勝利し、今岡城も落城させています。太田本郷城には織田家の家臣である斎藤新吾利治(斎藤新五)が入り、暫く居城として利用したとされます。
天正9年に長親が松倉城で死去した事で、戦局は一気に織田方に傾いています。太田本郷城の動向は不詳ですが、織田方に味方したと思われる椎名駿河守が越中国太田保を賜っている事から当城を利用した可能性があります。
城跡は圃場整備等により殆ど消滅し、場所の特定すら困難でしたが、発掘調査により石碑から円光寺方向に二重の堀と、二之郭から成る平城だったと推定されています。堀の跡からは300点以上のかわらけが発見されており、中には戦勝祈願の占いをしたと推定される吉祥を彷彿する墨書があるものも複数見られます。
富山県:城郭・再生リスト
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