・宗守城が何時頃築城されたのかは判りませんが、永正年間に関東管領である上杉顕定が砺波地方を平定し、弟の上杉九郎房義を配した際、房義の家臣小林壱岐守が山田郷の領主となり当城を利用したとされます。房義は、顕定の弟で九郎と呼ばれている事から上杉房能の事と思われます。
房能は明応3年に父親の跡を継いで越後国守護職となり、上杉家の勢力拡大に力を注ぎましたが、永正4年に越後国守護代の上杉為景が反乱を起し、戦局が不利となり顕定を頼り関東に落ち延びる際、追撃を受け天水越で自刃に追い込まれています。小林壱岐守は房能の自刃の報を受け、越後国に撤退したとされ、宗守城は一時廃城になったと思われます。
70年後、房能の子孫とされます藤井嘉兵衛が城主だったとされ、上杉謙信の越中国侵攻により奮戦空しく宗守城は落城し嘉兵衛も討死したとされます。
伝説によると、嘉兵衛の奥方である「いち」は臨月だった為、危機を察した嘉兵衛は長男と共に城外に脱出させ、家臣で現在の城端築是安に屋敷を構えていた畑六郎左衛門宅に落ち延び、そこで無事に出産したそうです。しかし、上杉勢の落ち武者狩が差し迫った為、一縷の望みで再び宗守城に戻ると、無情にも上杉兵に見つかった事から奥方は赤ん坊を生きたまま土中に埋め、村はずれで自害したと伝えられています。
廃城後、住民達は宗守城の本丸跡に神明社を開創し現在もその境内として利用されています。境内を取り囲むように土塁が残され、東側以外は宗守城の土塁の遺構とされます。
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