・小出白は天文年間に越後国守護代の長尾為景に敗北した式部大輔唐人兵庫が当地に落ち延びた後の天文14年に築いたと伝えられています。唐人氏の出自については不詳ですが、一説には現在の三重県桑名郡木曽岬町加路戸出身で鉄炮の名手だったとの説があり、雑賀衆等と共に越中や加賀の一向一揆衆を助ける為に下向したにかも知れません。
その後、弓庄助五郎が城主となり、永禄9年に上杉謙信の越中侵攻により落城しています。落城後は唐人兵庫の一族と思われる唐人親広が城主になったと推定されています。
元亀4年に上杉謙信が当地域を掌握すると親広はそれに従ったと思われ、その後に行われた上杉勢による能登国侵攻に従軍し甲山城の城将を担っています。天正6年に上杉謙信が死去すると、越後国内に大規模な内戦が発生し、その間隙を突いて織田信長が越中国を席捲した為、親広も織田方に転じています。
親広は同じく織田家に転じた椎名小四郎の配下になりましたが、その後、神保覚広、小島識鎮等と共に上杉家に復帰し、一時小出城を出たと思われます。小出城には越中国方面を任されていた織田家家臣佐々成政の家臣久世但馬守が配されています。
天正9年に佐々成政が越中国を一時離れると、その間隙を突いて上杉家家臣である松倉城主河田長親が小出城を急襲しましたが、報を聞いた成政が急遽引き返し反撃した為、落城を免れ、長親は松倉城に撤退しています。
その後、成政は小出城を重要視し一族である佐々喜藤次、佐々喜右衛門を配しています。天正10年に本能寺の変が発生し信長が死去すると、越中国の国人領主達は大いに動揺し、その間隙に上杉景勝が侵攻、小出城も上杉方になった事から唐人親広が城主に復権したと思われます。
しかし、天正11年に体制を整えた佐々成政勢に攻められ、奮戦したものの上杉勢の救援が間に合わず降伏を受け入れ、小出城を明け渡すと上杉家を頼り越後国に落ち延び、その後は家臣となっています。成政は余勢をかって越後国侵攻を画策し兵を進めると、今度は上杉家に従った土肥政繁が小出城を攻め落としています。
成政と羽柴秀吉、上杉景勝の和睦が成立すると、小出城は佐々方に引き渡されたようですが、天正13年の富山の役で成政が敗北すると佐々方の手を離れ、文禄4年に前田利長が接収、慶長20年の一国一城令により廃城となっています。
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