・上熊野城は何時頃に築かれたのかは判りませんが、戦国時代には二宮氏が城主だったとされます。
二宮氏は新川郡若杉を本貫とする国人領主とされ、、斯波家五代当主で、越中国守護職である斯波義将に従って越中国に入部した二宮円阿の後裔とも云われています。
一方、城跡に境内を構えている祐屋山浄蓮寺の由緒によると延元2年に二宮祐源法師が開創したとある事から、これが事実であれば、南北朝初期には既に入部していた事になります。
当時の城主と思われる祐源の甥にあたる二宮兵庫之介は観応の擾乱では足利家一族で越中国守護職の桃井播磨守直常に従い、足利直義方に属し、足利尊氏方と京都で戦い討死したと伝えられています。
兵庫之介は神仏を篤く信仰しており、文和4年には近隣に鎮座している熊野神社に対して社領50石を寄進し、達一振りを奉納しています。
天文年間の城主である二宮左衛門太夫長恒は越中国守護代神保長職に従い、上杉方が守備する津毛城攻めや、上杉家家臣村田修理亮との合戦にも参戦し功績を挙げています。
天正4年に上杉家の大規模な越中国侵攻により、長恒は敗北したようで上杉家に転じています。天正6年に上杉謙信が死去し、織田信長を後ろ盾とした神保長住が復権すると長住にも通じ所領が安堵されています。
その後、上杉方に攻められ、上熊野城は落城したと思われ、城下町に境内を構えていたと推定される祐屋山浄蓮寺もその兵火により大きな被害を受けています。落城後、上熊野城は廃城になったとされ、その後、二宮一族が城跡に浄蓮寺を再興し、神明社を遷座しています。
神明社と浄蓮寺の境内が上熊野城の城跡にあたり現在も神明社の南側には土塁と思われる土塁が残され、南側から西側にかけての低い水田は堀跡と推定されています。
富山県:城郭・再生リスト
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