・郷柿沢館が何時頃築かれたのかは判りませんが、室町時代には当地域を長く支配した土肥氏の一族が居館として利用していたとされ、資料によると土肥孫十郎や土肥源太郎、土肥孫太郎、土肥弥太郎等が記されています。
文化13年に編纂された「古城跡併館跡由来所伝趣書上早帳」によると、「柿沢村領館跡、先年土肥源太郎様御居住之由 元亀天正之頃落城之由申伝候、尤右場所当寺浄土真宗西養寺居屋敷相成居申候」と記されており、元亀から天正年間に郷柿沢館が落城したと伝えられていた事が窺えます。
又、越中古城祖記によると「江之柿沢ハ数年之館也、其時土肥・椎名在番シテ堀江ノ平城ヲ筑居ス、所々取合催木刻、川上稲村城ヲ拵籠城セシカ終景虎ノ手属ス」と記されており、土肥氏と椎名氏の在番で上杉景虎(謙信)に攻められ落城したと考えられ、僅か数年しか利用されていなかった可能性があります。
これにより、土肥氏は上杉家に従ったと思われますが、天正6年に上杉謙信が死去すると、上杉家の家臣である河田禅忠(長親)が動揺を抑える為に土肥孫十郎宛てに知行を安堵したものの、その後、織田家に転じています。
しかし、天正10年に発生した本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、上杉景勝に転じた為、弓庄城に立て籠る弓庄系土肥家当主土肥美作守政繁が佐々成政に攻められています。その際、郷柿沢館の主だった土肥弥三五郎は病弱で弓庄城に支援に行けず、佐々勢に攻め立てられ、僧籍に入るか帰農するか選択を攻められ、帰農した事で一命を許されています。
弥三五郎は門前紋兵衛に改名すると郷柿沢館の近隣に屋敷を構え、郷柿沢館の近隣に屋敷を構え、館跡には椎名兵部(法名:西順)を招いて西養寺を開創したとされます。
郷柿沢館は東西73m、南北80mの複濠複廓式の居館で、周囲は2〜7mの濠と土塁で囲い、南側に1箇所、東側に2箇所の虎口がありました。現在も土塁や堀の一部が残され、貴重な事から上市町指定史跡に指定されています。
富山県:城郭・再生リスト
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