・福光城は平安時代末期頃に石黒太郎光弘が築いたとされます。石黒氏は「越中石黒系図」によると孝元天皇の孫である武内宿禰の後裔、伊彌頭国造の支族利波臣の末裔とされます。ただし、「越中石黒家系図」には問題があるとして、実際は藤原利仁の末裔だったとされます。
平安時代末期頃に加賀国に本貫地があった林家と縁戚関係を結び、本貫地である石黒庄の地名に因み「石黒」姓を掲げました。「源平盛衰記」によると「越中国には野尻、河上、石黒党」と記されており、「平家物語」によると、石黒太郎光弘は木曽義仲に属し、 利伽羅峠の戦いで勝利に大きく貢献したと記されています。
南北朝時代の当主である石黒左近太夫成行は南朝方に属し、興国3年には宗良親王を福光城に迎えています。その後、畠山氏が越中国守護職に就任すると、畠山氏に従った遊佐氏が守護代となり、石黒家はその遊佐氏に属したようです。
戦国時代には宗家である石黒太郎光秀が福光城に弟の石黒五郎光信を配しています。文明13年、当時の加賀国守護職の富樫加賀介政親の要請を受けた石黒右京光義は、医王山総海寺と共に、越中一向一揆衆の拠点となっていた井波瑞泉寺を襲撃しましたが、田屋川原の戦いで敗北、余勢で福光城も落城したとされます。
その後、福光城は廃城となり、長く捨て置かれました。慶応年間に前村礼蔵や波多易直等が学問奨励の為、漢学者である宮永菽園と弟の宮永半仏を招いて教えを仰ぎました。すると、多くの子弟が集まって為、明治2年に荒廃していた福光城の跡地に郷学所となる「栖霞塾」を開校しています。
福光城の規模は江戸時代に編纂された「越中古城記」によると東西二十七間、南北十六間、現在の栖霞園一帯がその跡地とされます。福光城の城跡は貴重な事から、名称「福光城址と栖霞園」として南砺市指定史跡に指定されています。
富山県:城郭・再生リスト
|