・上梅沢城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、近くにある堀江城の城主で、長く当地を支配した土肥氏と関係が深いと考えられる為、観応2年/正平6年に堀江荘に何らかな権限を持っていた土肥中務入道以下輩の軍役にことよせた堀江荘内にある梅沢村、西条村、滑河村、小泉村等の領家職侵犯を停止した事が「井上文書」に記されており、領内に要害や軍陣を設けた事から、上梅沢城はこれらの施設の一つだった可能性があります。
ただし、本格的な城郭としては戦国時代に入ってからと推定され、土肥氏は上梅沢城の他、有金館や郷柿沢館、稲村城、千石山城を堀江城の支城として整備し、本城の守りを固めています。
城主については記録に残っておらず不詳ですが、上梅沢城は堀江城と近く支城として機能していたと考えられる為、土肥家一族か、有力家臣が配されたと思われます。
廃城年も明確な事は判りませんが、「上杉輝虎書状」によると、永禄12年に越中国に侵攻した上杉勢が「堀江之地」を「打明」した事が記されている事から、本城である堀江城と共に上杉勢の攻撃に晒され落城し、そのまま廃されたと思われます。
上梅沢城の規模は「越中古城記」によると、東西三十間、南北三十五間、「新川郡書上申帳」によると、東西二十六間、南北二十七間と記されています。現在は光明寺の境内として利用されており、周囲には土塁の一部が残されています。
光明寺には前身寺院で、上梅沢城と関係が深いと思われる黄梅寺の釈迦堂の本尊と伝わる釈迦如来坐像が安置されています。釈迦如来坐像は室町時代に制作されたと推定されたもので、杉材、寄木造、彩色金箔押、貴重な事から滑川市指定文化財に指定されています。
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