富山城(安住城・浮城)概要: 富山城は富山県富山市本丸 に位置する城郭です。築城年は不詳ですが室町時代前期にはすでに存在していたとされ、天文12年(1543)、神保長職の家臣水越勝重が本格的に整備拡張したと伝えられています。富山城は越中の中央部に位置し、神通川の舟運や北陸道、飛騨街道などが交わる交通の要衝として軍事的にも重要視され、戦国時代には神保氏と上杉謙信による攻防戦が何度と無く繰り広げられています。天正4年(1576)上杉謙信が富山城を占拠し小笠原長隆や上杉信定を城将としますが天正6年(1578)に謙信が死去したことで上杉領が内乱状態となり、間隙をぬって織田信長が越中に侵攻、天正10年(1582)、信長の重臣、佐々成政が小丸城(福井県越前市)主から越中の領主となり富山城を居城としました。
成政は富山城に神通川を引き込むなど大規模な改修を行い「浮城」と称されるほど巧みに堀を配した 城を築きますが本能寺の変後に台頭とた豊臣秀吉と対立し天正13年(1585)の富山の役で秀吉軍10万の兵に囲まれ降伏しました。その後、富山城は破却されましたが前田利長が領主となると整備が進み加賀藩主を隠居すると再度隠居城として金沢城(石川県金沢市)から一時移り住みました。慶長14年(1609)の火災後、利長は高岡城に移り、富山城には家臣の津田義忠が城代となりました。
寛永16年(1639)、前田利次が富山藩10万石で立藩、財政難などで富山前田家の居城が定まらなかった為、加賀藩が管理してた富山城を借り受けて利用しました。
象徴的な存在となった富山城の模擬天守閣
万治2年(1659)、歪だった管理体制を整理する為、富山城を含む一帯を加賀藩と同面積で領地交換を行い、万治4年(1661)から本格的な修復工事が行われました。幕府への届けには5層の天守閣に3基の櫓、3箇所の櫓門が計画されたようですが実際には2ノ丸の櫓門以外は史料が無く建てられなかったとも言われています。
寛文11年(1671)には2代藩主前田正甫が城内に時の鐘を設置、延宝3年(1675)に火災で御殿や米蔵等を焼失すると延宝5年(1677)に再建しています。
正徳4年(1714)に本丸が火災により焼失、享保8年(1723)には石垣の約16間半分が崩壊し3代藩主前田利興が借財をして修復しています。安永2年(1773)には6代藩主前田利與は藩校である「広徳館」を三之丸東側の総曲輪に創立しています。
9代藩主前田利幹の時代の天保2年(1831)には火災で焼失した部分を修築しています。
10代藩主前田利保は嘉永2年(1849)、城外北東部に隠居所である千歳御殿を造営しています。富山城は明治4年(1871)に廃城となり多くの建物が払い下げ又は破棄されています。
富山城の唯一の遺構とされる千歳御門
富山城の縄張り: 富山城は梯郭式平城で東西約680m、南北約610m、本丸を中心に正面南側に二ノ丸、東側に東ノ丸(出丸)と千歳丸、西側に西ノ丸が配され、それぞれの郭は土塁(主要部は石垣)と水堀で囲い独立性が保たれていました。さらに、それらの郭を囲うように三ノ丸(武家屋敷)と外堀が配され、北側には天然と外堀に見立てた神通川が流れていました。本丸と二ノ丸、東ノ丸との間と二ノ丸と三ノ丸の間、三ノ丸の大手門、東門、西門は枡形門とし、その内二ノ丸の枡形門だけが櫓門だったとされます。
富山城の遺構: 現存する遺構は千歳御殿の正門として建てられた千歳御門(嘉永2年:1849年建築、切妻、本瓦葺:赤瓦、総欅造り、薬医門、桁行6m、梁間1.9m)が赤祖父家に払い下げられたものを平成19年(2007)に再度富山城内に移築されています。現在の富山城は本丸、西の丸が城址公園として整備され正面には3層の模擬天守(郷土博物館・国登録有形文化財)が建てられています。
富山城:上空画像
薬医門を簡単に説明した動画
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