・大村城が何時頃築城されたのかは判りませんが、永正年間に越中国の国人領主であり轡田氏によって築かれたと伝えられています。轡田氏の出自は不詳ですが、一説には九州出身とも云われ、越中国婦負郡鶏坂村轡田郷を本貫地としていました。
当初は越中国守護代の神保氏に従っていましたが、永正17年に神保慶宗が長尾為景に敗れた事で、長尾家に転じ、引き続き上杉謙信に従いました。
天文19年に新庄城の城主三輪飛騨守が没落した事で、轡田備後守が新庄城を接収し、その後、備後守の子供、又は一族と思われる井上肥後守が新庄城の城主となっています。
永禄11年に椎名康胤が武田信玄に転じた事に同調したようで、上杉家と対立するようになっています。
天正6年、上杉謙信が死去した事で越後国内で大規模な内乱が発生した事から轡田豊後守雅正は版図を広げる為に兵を出しましたが、逆に上杉景勝に従った越中国松倉城の城主河田長親に攻められ大村城は落城、雅正もこの戦いで討死しています。
跡を継いだ轡田肥後守は上杉景勝に下り、改めて大村城に入ったとされます。しかし、富山城の城主佐々成政との対立が顕著となり、天正年間に敗れた事で大村城も落城したと見られ轡田氏も没落しています。
一方、雅正の長男は落ち延びた後に出家し祐専に改名し永禄11年に浄福寺を開創したとも、肥後守は早くから上杉景勝に従い、上杉方の甲山城の城将として畠山氏旧臣と戦い討死したとの説もあります。
大村城の城跡は凡そ瑞円寺境内と隣地の民家一帯とされ、境内には三方の土塁と堀の一部の遺構が残され、瑞円寺本堂には轡田氏の位牌と雅正が奉斎していた阿弥陀如来像が安置されています。又、瑞円寺の北側に位置する「精霊塚」には河田長親との戦いで討死した者を埋葬したとの伝承が残されています。
富山県:城郭・再生リスト
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