・井田館が何時頃築かれたのかは不詳ですが、戦国時代には当地の領主である斎藤氏が居館として利用していました。
斎藤氏の祖とされる斎藤左衛門太夫入道常喜は南北朝時代の北朝方に加担し、貞治6年/正平22年に南朝方の有力武将である桃井常直を攻めた事が功績となり、越中国婦負郡の「楡原保」が与えられ、当地に入部したとされます。
その後、斎藤氏は穀人領主として独立を保ち、特に八尾の地は越中国と飛騨国を結ぶ主要経路の一つで軍事的要衝と物流の拠点にもなった為、重きを成しました。
戦国時代になると、越中国守護代の神保氏と対立が顕著となり、当時の当主である斎藤伯耆守利基は同じく守護代の椎名氏と協力し対峙した為、城生城が神保氏勢に攻められています。
結局、能登国守護職の畠山義統の介入により和睦が成立したものの、神保氏の配下に組み込まれています。
天文21年、上杉謙信の越中国侵攻により上杉方に転じた寺崎民部左衛門盛永に攻められ天神林付近で迎え撃ちましたが敗北し、井田館は落城したとされます。
近くに鎮座している杉原神社もその兵火により社殿が焼失したとの由緒を伝えています。
その後も上杉家との対立が続き、元亀2年には飛騨国大野郡の国人領主で上杉家に従った塩屋筑前守秋貞から襲撃されています。
天正4年に上杉謙信が再び越中国に侵攻すると、当時の当主である斎藤右衛門尉信利は上杉方に転じています。
しかし、天正6年に謙信が死去すると越中国内が内乱状態に陥った事で越中国が空白地帯となり、織田信長を後ろ盾とした神保長住が復権した為、神保氏に従っています。
天正10年、本能寺の変で信長が死去すると信利は上杉景勝を頼りましたが、逆に織田家の重臣佐々成政の攻撃対象となり、天正11年に成政から襲撃され、信利は飛騨国に落ち延びたとされます。
井田館が何時頃廃城になったのかは判りませんが、詰城と目される井田主馬ヶ城は天正11年、城生城は慶長5年前後に廃城になっている事から井田館もその前後に廃されたのかも知れません
富山県:城郭・再生リスト
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