・仏生寺城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、戦国時代には斯波家の家臣である細川曽十郎(宗十郎)が城主だったとされます。
細川氏は、清和源氏の名門足利氏の支流で三河国額田郡細川郷を本貫とし、室町幕府の管領等を歴任した細川家の一族とされます。斯波氏の家臣時代は「完草(鹿草・莞草)」姓を掲げ、往時は家中筆頭だったとされます。
斯波義廉が越前国守護職になった際、複数の家臣が北陸地方に遷った事からその中に細川家も含まれていたと思われます。斯波氏が没落すると、越中国守護代の椎名家に従ったようです。
曽十郎は越中五大将に数えられた武将で、仏生寺城の城下の整備に尽力し、地名の「舟橋」は川越に舟橋を架け、その橋詰に町割りされた事が由来になったと伝えられています。城下には真言宗高野山の末寺十二坊が山王社を拠点に信仰を広げ、等通寺や、照明寺、極楽寺、安念寺、仏生寺、大願寺等はその後継寺院とも云われています。
曽十郎は高野郷を支配し、仏生寺城の支城として塚越砦、竹内館、立泉寺館が設けられており、立泉寺館には重臣である土地半兵衛が配されています。
元亀4年に椎名康胤が上杉謙信に降伏した事から、曽十郎も上杉家に転じたようで、天正12年には織田家の家臣で越中国方面を任されていた佐々成政に攻められ仏生寺城は落城、曽十郎は城内で切腹したとも城生村に遷り、冬を越してから魚津に入ったとも云われ、曽十郎の子供は土肥政繁に従い、天正9年に発生した弓庄城の戦いに参陣しましたが、佐々勢に敗れ討死しています。
仏生城は東西60間、南北90間、南側に流れる小川を天然の堀に見立て、残りの三方には幅5間の堀が囲っていたとされます。
富山県:城郭・再生リスト
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