・日方江城が何時頃築城されたのかは判りませんが、天正年間には既に、近隣にある大村城の出城として成立していたとされます。
城主についての詳しい記録はありませんが、富山県滑川市堀江に境内を構えている円照寺に伝わる伝承によると、当時の開基者は松倉城の城主椎名家の元家老で、その弟が日方江城に江上氏を配したとしています。
「越中志徴」によると、「江上重左衛門居せしが、天正中成政之を追ふと伝へり。」と記されています。「寛永誌」によると「日方江村領内之内城跡有レ之候。昔、江上満十郎と申者到ニ居住一候由申伝候。」と記されています。「肯溝泉達録」によると「日方江城 江上重左衛門住す。」と記されています。
江上氏の出自は不詳ですが、筑後国三潴郡江上村を本貫とする江上氏が著名ですが、大村城の城主轡田氏も九州出身とも云われている事から、江上氏の一族の一部が轡田氏に従い、当地に下向したのかも知れません。
又、別説としては大村城の城主轡田豊後守雅正が家老を配したとも云われています。雅正は1万石、家老は3千石を領していたそうですが、天正6年に上杉家の家臣である河田豊前守が大村城を急襲し雅正は討死、この戦で日方江城も落城したと思われます。
日方江城はこの戦いの後に廃城になったとも云われますが、「越中志徴」の記述が正しければ、天正年間に佐々成政に攻められ落城、これにより江上氏は当地を追われた事になります。
日方江城は南北約80m、東西約70m規模で、周囲を土塁と空堀で囲い、西側は窪田川、東側は琵琶川の沼地、北側は日本海を天然の外堀に見立ていたようです。了照寺境内周辺が日方江城の中心部で、境内の南側には空堀と郭の形状、東側には土塁と空堀、周辺には築山割や築山畑割、屋敷割等の地名が残されています。当地の北側に鎮座している天神社の境内には上杉謙信が設けた「そうけ塚」があります。
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