・弓庄城は戦国時代に土肥氏によって築かれたと推定される中世の平城です。
土肥氏は桓武平氏良文流、相模国土肥郷を本貫とした氏族で、その分流である土肥頼平が建長年間に地頭職として越中国新川郡堀江庄に入部し、次第に国人領主として版図を広げたと推定されています。
ただし、明確な資料として見られるのは南北朝時代の正平年間からで、最盛期には7〜10万石程度の大名として長く当地に君臨していました。その後、堀江系土肥氏と弓庄系土肥氏の2系統に分かれ、本家筋の堀江系土肥氏は永正17年に越中国守護代の神保氏に従い新庄合戦に参陣したものの長尾為景に敗北、さらに天正12年に発生した越中大乱の中、没落しています。
一方、当時の弓庄系の当主である土肥政繁は上杉謙信に臣従する事で没落を免れています。天正6年に上杉謙信が死去すると、越後国内で大規模な内乱が発生した為、その間隙をついて織田信長が越中国に侵攻、天正9年には信長の家臣で富山城の城主佐々成政が弓庄城を急襲しますが、これを撃退しています。
天正10年に再度成政が来襲すると、上杉家に救援を求めましたが、その上杉家も織田家の侵攻により越後防衛に終始した為、援軍の見込みがつかず開城に応じその後は織田家に従っています。同年、本能寺の変が発生し織田信長が明智光秀に討たれると、政繁は再び上杉景勝に転じています。
その後も佐々成政は再三弓庄城に侵攻しましたが、その都度、持ちこたえ、天正11年には成政方の太田新城を攻略する功績を挙げています。しかし、同年、上杉景勝と佐々成政、羽柴秀吉の和睦が成立し、当地が佐々領に組み込まれた為、政繁は弓庄城を放棄し上杉家を頼って越後国に逃れています。
弓庄城は南北約600m、東西約150mの平城で、主郭を中心に南北方向に4つの郭を直列(連郭式)に配し、西側には2つの複郭を設け、周囲を深い堀と高い土塁で囲い、西側を流れる白岩川と南側に流れるその支流を天然の外堀に見立てていました。
現在は圃場整備等で多くの遺構は失われましたが、西側の切岸等が残され、往時を忍ばせてくれます。弓庄城の城跡は貴重な事から名称「弓庄舘城跡」として上市町指定史跡に指定されています。
富山県:城郭・再生リスト
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