・武隈屋敷が何時頃築かれたのかは判りませんが、当屋敷の奥地に位置する松倉城の城主、椎名氏の家老である武隈氏の居館だったとされます。
武隈氏の出自は判りませんが、古くから椎名氏に従い、興国2年/暦応4年に足利尊氏の命で椎名胤明が相模国から松倉城に入部した事から、家老だった武隈元長も胤明に随行し越中入りを果たし、当地(三百山)に屋敷を設けたと推定されています。
一方、一般的には承久の乱の功績により新補地頭職が与えられ入部したとも、その後、椎名良明の孫にあたる椎谷頼胤の頃に松倉城に入ったとも云われています。
椎名氏は越中国の半国守護職として版図を広げますが、戦国時代には同じく越中国の半国守護職である神保氏と激しく対立し、度々松倉城が攻められている事から、当屋敷も戦場になった可能性があります。さらに、永禄11年に椎名康胤は後ろ盾として従っていた上杉謙信を裏切り武田信玄に転じた為、元亀2年に上杉勢に松倉城を攻められ落城、当屋敷も落とされたと思われます。
康胤は砺波に落ち延び、越中一向一揆衆に加担し、上杉勢に対抗、武隈氏も戦場を共にしたとされます。
椎名家が滅びると、当時の当主である武隈元重は帰農し、文禄4年に旧屋敷のあった三百山に帰参しています。又、地名を三百山から小菅沼と改名したのは武隈家とされます。その後は豪農として長く当地の開発に尽力していましたが、大正時代に他県に移転しています。
武隈屋敷は小菅集落の突端に位置し眼下に眺望が開ける軍事的要衝で、松倉城の出城としての機能があったと推定されています。規模は一辺が60m〜70mの方形で、周囲を土塁と石垣で囲い、出入り口は防衛力が高い桝形で構成されていました。武隈屋敷の跡地は現在も土塁や石垣の遺構が明瞭に残り貴重な事から魚津市指定史跡に指定されています。
|