・城端城が何時頃築かれたのかは判りませんが戦国時代には荒木大膳が城主で、永禄2年、又は元亀3年に城内に現在の富山県南砺市山本に境内を構えていた善徳寺を招いて寺地として寄進したと伝えられています。
荒木氏の出自は不詳で、記録によっては膳太夫や六兵衛と記されています。加賀国一向一揆と同様に越中国も一向一揆が盛んだった所で、大膳も居城に善徳寺を招く等、熱心な一向宗信者だった事が窺えます。
江戸時代に加賀藩の藩士だった荒木家の伝承によると大膳は当地が前田家領になると前田利家に従い、天正18年に発生した小田原合戦に従軍し、その前哨戦の一つ八王子城攻防戦で討死したと伝えられています。
一方、城端城は越中国婦負郡南部の領主で城主城の城主、斎藤信利の弟である斎藤久右衛門信吉が配されています。天正6年に上杉謙信が死去すると信吉は兄と共に織田信長に転じ、月岡野の戦いでは今泉城を攻略する功績を挙げ、信長から「信」の諱を賜っています。
しかし、天正10年に発生した本能寺の変で信長が死去すると、兄と共に越後の上杉景勝に転じた為、織田家の重臣で富山城の城主ある佐々成政に攻められ敗北、親戚筋の三木氏を頼って飛騨国に落ち延びています。
城端城は佐々成政の支配下に入り、成政の家臣である河内才右衛門が配されています。しかし、天正13年の富山の役で成政は羽柴秀吉に敗北した事で、当地は秀吉に従った前田利家に与えられ城端城も廃城になったと思われます。
城端城の正確な位置は判っておらず、「越登賀三州志」によると善徳寺の門前町の南側、「三州測量図籍」によると善徳寺の南東にあったと記されています。
城端城の遺構としては、大手門が善徳寺の山門として利用され、山門を新築した際に万福寺の山門として移築されています。又、善徳寺の境内に残されている太鼓堂も城端城の施設の一つを再利用した建物と伝えられています。
富山県:城郭・再生リスト
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