・新庄城は15世紀に当地を支配していたと思われる三輪氏が居館として築いたのが始まりと推定され、当初は幅2.7m〜3.2m、深さ1m程の堀と、幅2.4m、高さ0.8m程の土塁で囲っていました。
応仁の乱頃に城郭と言っていい程に拡張整備され、堀や土塁も以前の館から2倍程度規模が大きくなっています。
永正17年、越中国守護職畠山氏と守護代の神保慶宗の対立に介入した越後国守護代長尾為景が、新庄で陣を設けて神保勢と戦い勝利を収めています。為景が構えた新庄の陣は、新庄城の事と推定されています。
天文年間に三輪飛騨守が改めて新庄城を築城し、居城として整備しています。天文19年に三輪氏の没落に伴い近隣にある大村城の城主轡田氏が接収し、一族の轡田備後守が配されています。
その後、子供、又は轡田氏一族と思われる井上肥後守が城主となりましたが、永禄11年に轡田氏が従っていた椎名康胤が上杉家から武田信玄に転じた事から元亀2年に上杉謙信の越中侵攻の際に攻撃目標とされ、あえなく落城、肥後守は船倉に退いたとされます。
当地が上杉領になると上杉謙信に従った鰺坂長実が配され、元亀3年には富山城を占拠した越中一向一揆衆に対峙する為に、新庄城が最前線の拠点として上杉方から利用されています。
天正6年に織田信長の後ろ盾を得た神保長住は上杉謙信が死去した事で大混乱となった越中国に入り富山城を奪還、天正8年には新庄城を急襲しています。天正10年に本能寺の変が発生すると土肥政繁が上杉景勝方に転じ、土肥家の家臣である杵屋兵左衛門が当城を急襲し落城させています。
その後、佐々成政の支配下に入りましたが天正15年に肥後国に移封となり、前田領に組み込まれた為、前田利家の管理下となりました。元和元年に一国一城令により廃城となりその跡地には加賀藩の陣屋や作食御蔵等が設けられています。
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