・柴田屋館が何時頃築かれたのかは不詳ですが、永禄年間に柴田丹波守久光が館主だったとされます。
久光は蓮沼城の城主椎名康胤の家臣だったとされる人物です。椎名康胤は本来、越中国守護代の家系でしたが、同じく守護代の神保長職に攻められ弱体化した為、上杉謙信に下り勢力を維持していました。
しかし、永禄11年に上杉家を離反し武田信玄に転じた為、永禄12年、天正4年と上杉勢に攻められ籠城していた蓮沼城は落城、康胤は自刃に追い込まれています。主家を失った久光がどの様な行動を採ったのかは判りませんが、天正7年に木舟城の城主で、織田方の神保長住に従った石黒左近蔵人成綱に攻められ滅ぼされています。
現在は柴田屋日吉社の境内として利用され、目立った遺構は失われているものの、境内は周囲の水田から僅かに高台となっており当時の名残が見られます。
日吉社の開創年は不詳、柴田屋館が廃城になってから当地に遷座したようで、当初は山王権現と称していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され社号を日吉社に改めています。毎年8月の最終日曜日又は土曜日には南砺市高瀬地区三清から伝承された獅子舞が奉納されます。
柴田屋館の規模は50間(約90m)×40間(約72m)の単郭で、周囲を土塁で囲っていたと推定されています。西側を流れる小矢部川の支流である旅川が天然の外堀に見立てていたようです。
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