・日中城は天正11年に富山城の城主佐々成政が土肥美作守政繁の籠る弓庄城を攻略する為に築いたとされます。
土肥誠繁は越中土肥家の庶流で、本敬は鎌倉時代以降、新川郡堀江庄の地頭職を歴任する等長く当地を支配していましたが、戦国時代に椎名家や上杉家の干渉を受け没落しました。
政繁は上杉謙信に従い当地を任されていましたが、天正6年に謙信が死去し越後国内で激しい内乱が発生すると、織田信長が越中国まで侵攻した事から織田家に従いました。
しかし、天正10年に本能寺の変で信長が死去すると、旧領奪還の為、上杉景勝が越中国に侵攻した為、政繁は景勝に従いました。一方、織田家の家臣である佐々成政は織田家からの支援が無い中、独力で越中国支配を目論見、各地に版図を広げ魚津城、小出城等を陥落させました。
景勝は御館の乱を制し上杉謙信の後継の地位を確立したものの、不平等な恩賞から家臣だった新発田重家が離反し反乱を起していた事から越中国では積極的な軍事行動が出来ない状態でした。
その様な中、政繁は成政の猛攻を耐えていた事から、成政は弓庄城を取り囲むように4つの城を築き攻撃の拠点としました。日中城はこの4つの城の一つで、弓庄城から見ると白岩川を挟んだ西側に設けられました。
日中城は白岩川を天然の堀に見立て、東側は川によって削られた岩壁となっていた事から、残りの三方を土塁と堀で取り囲んでいました。日中城は単郭で、規模も然程大きくは無かった事から恒常的な城郭というより弓庄城攻略だけの砦として利用したようです。
結局、佐々成政と上杉景勝、羽柴秀吉の三者が和睦を結んだ事で、政繁の立場が失われ景勝を頼り越後国に退いた為、日中城も役割を終え廃城になったと思われます。日中城の城跡は貴重な事から立山町指定史跡に指定されています。
富山県:城郭・再生リスト
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