堀江城

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堀江城:略データ
・場 所・富山県滑川市堀江
・築城年・−
・築城者・土肥氏
・城 主・土肥氏
・構 造・平城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・堀江城が何時頃築かれたのかは判りませんが、中世、長く当地を支配した土肥氏によって築かれたと推定されています。

土肥氏は中村荘司宗平の次男である実平が相模国土肥郷に配され、地名に因み「土肥」姓を掲げたのが始まりとされ、その一族である土肥頼平が建長年間に越中国内に地頭として入部したとされます。

室町時代に入ると、祇園社の荘園である「堀江荘」を横領するようになり、幕府から指導を受けています。観応3年/正平7年に編纂された「足利義詮御判御教書」によると堀江荘に要害や軍陣が設けられたと記されている事からこの頃に堀江城が築かれたのかも知れません。

戦国時代に入ると土肥氏は堀江系と弓庄系の2系統に分かれ、堀江系は本城である堀江城を中心に上梅沢館、有金館、郷柿沢館、稲村城、千石山城を築き、」最盛期には7万石から10万石を領する有力国人領主として発展しています。

土肥氏は基本的に越中国守護職の畠山氏に従い、明応の政変では畠山政長と共に第10代将軍足利義材方に味方した為、幕府管領の細川政元方に攻められ敗北しています。永正17年に越後国守護代の長尾為景が越中国に侵攻すると、土肥氏は越中国守護代の神保氏と共に、新庄にて決戦に及びましたが、敗北、結局長尾氏が越中国を席捲する事となり、土肥氏もこれに従っています。

しかし、長尾家からは離反したようで、永禄12年には上杉謙信に攻められ堀江城は落城し、城主である土肥弥太郎は飛騨国に落ち延びています。その後、復権したようですが土肥氏の本城は弓庄城に遷した為、廃城になったと思われます。

「越中古城軍記」によると主郭部は東西28間、南北30間程と記されており、城域としては東西300m、南北100程度と推定されています。堀江城は数m程度の微高地に築かれ、周囲を土塁と空堀で囲い、上市川とその支流が天然の外堀に見立てられていたと思われます。現在は上市川の氾濫や圃場整備、墓地、公園が設けられた事で、目立った遺構は失われています。

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