・安養寺城は永正16年に勝興寺によって築かれた中世の平城です。
勝興寺は文明3年に蓮如上人が開創した寺院で、当初は越中国那波郡蟹谷庄土山に境内を構え、地名に因み土山御坊と称し蓮如の四男である蓮誓が住職として配されていました。その後、明応3年に蟹谷庄高木場に境内を遷し高木御坊と呼ばれています。
永正16年に高木場御坊が火災により大きな被害を受けると、三世で蓮誓の次男である実玄が当城を築いて境内を遷し安養寺御坊と呼ばれるようになりました。当時の越中国では一向一揆衆が席捲し特に安養寺御坊は井波瑞泉寺や城端善徳寺と共に一揆衆の一大拠点として重きを成しました。
天正9年、住職である顕幸や主力の門徒達は本寺である石山本願寺支援の為、出払っていた事から、その間隙を突いて石黒成綱が来襲し、少ない兵力で奮戦したものの、あえなく落城し、城下町も焼き討ちとなり壊滅的な被害を受けています。
天正12年に富山城の城主佐々成政の命により、神保氏張の支配下にあった古国府城の敷地が氏張から寄進され、古国府城の城内に境内を遷し再興、これにより安養寺城は廃城となっています。
安養寺城は東西約350m、南北約250m程度の規模で、主郭は約200m四方、周囲を土塁と空堀で囲っており、寺内町を形成していました。現在は圃場整備や宅地化により目立った遺構はありませんが、空堀の一部と鐘楼堂跡等が確認出来るようです。
安養寺城の城跡は貴重な事から名称「勝興寺安養寺御坊跡」として小矢部市指定史跡に指定されています。
|