・若栗城が何時頃築城されたのかは判りませんが、文政元年に編纂された「文政元年城跡館跡由来申伝之趣書上申帳」によると不悪凡斎右京輔が、城主だったと記され、「越能賀三州志」によると総田太郎左衛門が館主だったと記されています。
伝承によると、上杉謙信が越中国侵攻で若栗城を攻めた際、不悪凡斎右京輔の奥方とも息女とも云われる女武将が、上杉勢が放った矢を捕らえて、それを撃ち返した事で思わぬ苦戦を強いられたとされます。
それを知った上杉勢は、通常の弓矢より速度が早く強力な菅矢に変えて攻め立てると、流石の女武将も矢を捕らえる事が出来ず討死したそうです。女武将討死の報を聞いた不悪凡斎右京輔は敗北を悟り自刃し、若栗城は落城、上杉勢の手に落ちたと伝えられています。
往時の若栗城の規模は宝暦14年に編集された「宝暦十四年新川軍書上申帳」によると「東西四十間、南北四十五間程」と記され、「越能賀三州志」によると「東西四十間、南北四十二間、高さ七尺の垣上げ有し」と記されている事から、東西70〜75m、南北80〜85m程度の単郭の
方形館だった事が窺えます。又、周囲は堀によって囲われており、北側に位置する高橋川が天然の外堀に見立てられていたようです。
現在の敷地は東西約100m、南北約80m、現存する土塁は高さ約5m、幅10〜20m、北、西、南の三方を囲むようなコの字型で東側が失われています。
発掘調査によると、珠洲焼、越前焼、越中瀬戸焼、伊万里焼等の焼き物や土塁の基礎固めの石列、施設の石敷が発見され、それらから考察すると戦国時代の城跡と推定されています。若栗城の城跡は貴重な事から黒部市指定史跡に指定されています。
富山県:城郭・再生リスト
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