・蜷川館が何時頃築かれたのかは判りませんが、長く当地を支配した蜷川氏が居館として利用していたとされます。
蜷川氏は景行天皇、又は日本武尊、吉備武彦、物部氏の後裔とされる宮道ノ君の子孫とされ、宮道親直が源頼朝の従い功績を挙げた事で、越中国砺波郡、新川郡を与えられ、新川郡大田荘蜷川村を本拠地とした事から地名に因み「蜷川」姓を掲げたとされます。
建武年間頃に蜷川親行は足利将軍家の重臣である伊勢貞継と姻戚関係だった事から伊勢氏の被官となり、その口添えで蜷川親当の代には室町幕府政所代に就任し重きを成しています。
永正2年に発生した月岡野の戦いで蜷川字部少輔が討死、永正3年に越中国守護代の神保氏に蜷川館(城)が攻められ落城したと伝えられています。
さらに、永禄5年に伊勢貞孝、貞良父子が討たれると、蜷川親世は後ろ盾を失い、永禄8年に室町幕府13代将軍足利義輝が三好三人衆に殺された為、所領を失った事から出羽国に落ち延びています。
蜷川館は、現在の最勝寺の境内一帯とされ、外周に見られる土盛は土塁跡とも云われています。最勝寺は建久8年に蜷川親綱が、父親である蜷川親直の菩提を弔う為に、館の北側に開創したのが始まりと伝わる寺院です。
アニメ「一休さん」で室町幕府3代将軍足利義満の側近として紹介される蜷川新右衛門は、当館主だった蜷川新右衛門親当がモデルとも云われ、実際に親交があった一休禅師も、最勝寺に良く訪れたと伝えられています。
永正3年に蜷川館が落城すると、最勝寺もその兵火により大きな被害を受けましたが、館の跡地に境内を遷し再建されたとされ、江戸時代に入っても旗本等で命脈を繋いだ一族が最勝寺を庇護しています。
境内には蜷川親直や親綱、親煕等の位牌や墓碑が祀られています。
富山県:城郭・再生リスト
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