・野尻城が何時頃築かれたのかは判りませんが、平安時代末期には木曽義仲に従った野尻氏が城主だったとされ、 利伽羅峠の戦いにも参戦しています。
野尻氏の出自は不詳で、藤原利仁の後裔である斎藤氏の一族とも、越中国の国司を務めた利波臣の後裔とも云われています。
「承久記」には「加賀国住人林、富樫、井上、津旗、越中国住人野尻、河上、石黒の者ども、少々都の御方人申して」と記され、上皇方に与していた事が窺えます。
建武2年に鎌倉幕府最後の得宗だった北条高時の遺児である北条時行が中先代の乱を起すと、名越時兼もそれに呼応、野尻氏も新政府に不満を持っていた事から時兼に同調し、同じ北陸地方の不満分子と共に蜂起しています。
同年11月、南朝方の有力武将だった新田義貞の打倒を掲げる足利尊氏の気持ちを汲んだ弟の足利利直が御教書を発給すると、野尻氏もそれに応じて、北陸諸将と共に石動山を攻め多くの堂宇伽藍が焼失しています。
正平9年/文和3年、加賀国守護職を担った多賀氏春が室町幕府の命で加賀国山上郷と越中国野尻庄の地頭職に就任すると、野尻氏は反発したと思われ、正平10年/文和4年以降、反幕府、南朝方に転じた桃井直常に従って各地を転戦しています。
正平17年/康安2年に北朝方の富樫氏を攻めたものの、吉見氏頼に侵攻され、野尻城も攻撃されています。正平24年/応安2年に再び能登国で吉見勢と交戦し、この時にも野尻城は戦場となっています。
その後の野尻氏の動向は不詳で、文明13年に越中一向一揆衆に攻められた際、当時の城主が降伏し落城したとされます。
野尻城の廃城年は不詳ですが、発掘調査により戦国時代の井戸跡や陶磁器類、鍛冶関連遺物が発見されている事から少なくとも戦国時代頃までは利用されていた可能性があります。
野尻城の規模は「越登賀三州志」によると東西90間、南北80間と中世の平城としては大きく、重要視されていた事が窺えます。現在は徳仁寺の境内や田圃として利用されている為、目立った遺構は失われています。
富山県:城郭・再生リスト
|