・川合田館が何時頃築かれたのかは判りませんが、「三国志」によると戦国時代には雑賀安芸守が館主だったとされます。雑賀安芸守についての詳細は不詳ですが、紀伊国北西部の「雑賀荘」を本貫とする氏族で、特に鉄炮を得とする傭兵集団、所謂「雑賀衆」の一族とも云われています。
雑賀安芸守は川合田館だけでなく、遊部屋敷や、石川k年金沢市釣部町東部の高峠城の城主だったとも云われています。これらから察すると、国人領主や土豪といった地域に根付いた領主というよりは、越中や加賀の一向一揆衆の傭兵として雇われ、各地に転戦していたのかも知れません。
川合田城は元亀年間に上杉謙信に越中侵攻により攻撃され落城したとされます。雑賀安芸守はその後も転戦し、織田信長の武将である佐久間盛政との戦いで討死したと伝えられています。
川合田館の規模は宝暦14年の古城跡等調べによると、東西30間余、南北25間余、南北25間余幅5間の堀池があったと記されています。
明治時代に入ると石黒小学校の敷地として利用されていましたが、昭和52年に周辺地域の小学校の統廃合が行われ、福光中部小学校が開校した為、現在は石黒公民館となっています。
川合田館の跡地は小学校や公民館として整備された為、目立った遺構は失われています。
富山県:城郭・再生リスト
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