・放生津城は正応3年に越中国守護職の北条時有が守護所として築城したと推定されています。
正慶2年/元弘3年、後醍醐天皇が挙兵すると、出羽国や越後刻の反幕府勢力が気多神社に幽閉されていた恒性皇子を擁立し、討幕の挙兵を挙げるとの情報が入った為、時有は家臣である名越貞持に皇子とその近臣を処分させました。
しかし、反幕府勢力の勢いを止まらず、1万余の兵が放生津城を取り囲み激しく攻め立てました。結局、援軍も間に合わず進退窮まった為、時有は妻子を名呉の浦に入水自殺させ、自ら放生津城に火を放ち自刃しています。
室町時代に入ると越中国守護代の神保氏が居城として利用し、明応2年に発生した明応の政変では、当時の城主である神保長誠が幽閉されていた10代将軍足利義稙を助け出し放生津城に迎えています。
神保氏は当初、越中国守護職の畠山氏や越後国守護代の長尾氏とは友好な関係を築いていましたが、一向一揆の扱いや独立を画策した事で対立するようになり、永正17年には長尾為景の侵攻を受け放生津城は落城しています。神保慶宗も新庄の戦いで敗北し自刃、慶宗の後継と思われる神保長職が再興したものの、本城を富山城に遷しています。
江戸時代に入ると、加賀藩に属し、藩主前田家の家臣である山崎長鏡が城主、城代として配されましたが、元和6年に一国一城令により廃城となり、その後は加賀藩の米蔵屋敷として利用されています。
放生津城の規模は江戸時代に編纂された「加越能古跡」によると「本丸南北七十間、東西四五間、高さ一丈、西南十間、東北大川幅二五間、二ノ郭南北二八間、東西二十間」と記されています。
現在の放生津城の跡地は射水市立放生津小学校の建設や宅地化、道路整備等によって多くの遺構は失われましたが、貴重な事から射水市指定史跡に指定されています。
富山県:城郭・再生リスト
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