・今泉城が何時頃築城あれたのかは不詳ですが、戦国時代には椎名氏の支配下に入っていたと推定されています。
元亀2年、飛騨国内の国人領主で、越中国に侵攻し、戸川城を占拠していた塩屋秋貞が今泉城を攻撃し攻め落としています。
当地は椎名康胤の支配下にあり、上杉謙信の後ろ盾を得て宿敵である神保氏に対しても優位な状況で、長尾一族である長尾景直を養子に迎える等、良好な関係を築いていましたが、永禄11年に発生した本庄繁長の乱を契機に上杉家を離反し、武田信玄に転じています。
康胤は上杉家から見ると粛清の対象となり永禄12年以降は上杉家から激しい攻撃に晒され、一度は松倉城を堅守し退けたものの元亀3年に攻められた際には開城に応じています。康胤の旧領である越中国太田下郷(太田保)は天正元年に上杉謙信の側近である河田長親に与えられ、天正2年に長親は今泉城の修築を行い、代官を配して支配体制を確立しています。
長親は上杉家の越中、能登平定に尽力し天正5年には開城に応じた七尾城の受け取りの大役をこなしています。天正6年に謙信が死去すると、その後継を巡り上杉景虎と上杉景勝陣営に分かれた大規模な内乱となり、これに乗じて織田信長が北陸地方の上杉領に本格的に侵攻を開始しています。越中、能登国内の国人領主達は織田方の切り崩しにあい、上杉家からの離反者が続出、長親はその対処に追われ内乱には積極的に介入しなかったとされます。
織田方の神保長住が飛騨から越中に侵攻すると、織田方に転じた越中の国人領主達と共に増山城を攻略、さらに織田勢は津毛城を落とした為、上杉勢は太田本郷城を放棄、今泉城に兵を集めて決戦を挑んでいます。
織田勢は今泉城を攻めあぐね、撤退、長親は追撃戦を決断するものの、月岡野での戦いで敗北、さらに今泉城も落城しています。この後、今泉城が記録される事が無い事から程なく廃城になったと推定されています。
富山県:城郭・再生リスト
|