・願海寺城が何時頃築城されたのかは判りませんが、戦国時代には寺崎氏の居城でした。寺崎氏は越中国守護の畠山氏に従っていた為、天文19年に上杉謙信の越中国侵攻により願海寺城も攻められ落城、当時の城主である寺崎行重は討死したと思われます。
跡を継いだ嗣子の寺崎盛永は上杉謙信に転じ、天文21年には井田城主飯田利忠と戦っています。その後、一転して神保氏に与し、元亀元年には上杉方が守備する魚津城攻めに従軍しています。その後は越中国一向一揆衆に協力し、元亀3年には畠山氏の旧臣が籠る石動山に一揆衆の総大将として侵攻しています。
天正4年には再び越中国諸将と共に上杉謙信と戦い敗北、再び上杉家に従属し、天正5年に編纂された「上杉方将士名簿」に寺崎盛永の名が記されています。
天正6年に謙信が死去すると、織田信長に転じましたが、越中侵攻中の織田家家臣の佐々成政が越中を離れている隙に、上杉家家臣の河田長親が織田方の小出城を急襲、成政は反転攻勢し河田勢を撃退しています。この戦いで、盛永が河田勢に同調したと判断され粛清の対象となり、織田家の重臣で七尾城に詰めていた菅屋長頼に攻められました。
盛永は願海寺城に立て籠もり、頑強に抵抗したものの家臣である小野大学助や大貝采女等が裏切って織田方に転じた為、程なく願海寺城は落城、盛永は捕縛され、七尾城に送られました。盛永の嗣子である寺崎喜六はその後も抵抗を続けるものの、遂には力尽き捕縛されています。
その後、寺崎親子は織田家重臣丹羽長秀の居城である佐和山城に移送され、厳しい尋問の末、切腹が命じられています。盛永は喜六郎に少しでも命を長らえる為、進んで切腹を申し出て、後に残った喜六郎は父親から流れ落ちる血をひと舐めすると若干17歳で見事な最後を遂げたとされます。
願海寺城はその後記録で記載される事が無い事から程なく廃城になったと思われます。
願海寺城は実城と二之曲輪から成る複郭の平城で、実城は東西約80m、南北約120m、二之曲輪は東西約80m、南北約50m、周囲を水堀と土塁で囲っていました。
現在は加茂神社や宅地、田圃等で利用され、目立った遺構は失われましたが跡地からは土師器や陶磁器(珠洲焼、青磁、瀬戸美濃等)、木簡、将棋の駒、箸、櫛、曲物等が発見されています。
富山県:城郭・再生リスト
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