・舟見城が何時頃築かれたのかは判りませんが、伝承によると平安時代末期に宮崎城の城主宮崎太郎長康の子供である入善小太郎が築いたと伝えられています。
宮崎氏の祖は藤原利仁とも云われ、越中国新川郡宮崎村を本貫とし、平安時代末期の当主だった長康は寿永元年に木曽義仲と、以仁王の遺児である一の宮(北陸宮)を居城の宮崎城に招いて両者の対面に尽力した人物としても知られています。
長康の嫡子は「平家物語」長門本によると入善小太郎為直、長野県篠ノ井の長谷寺に伝わる過去帳や位牌等によると入善小太郎重房とされます。入善小太郎は父親に従い信濃国に遷ったとみられ、入善町には墓碑や供養塔が存在ぜす、一族や縁者の後裔を伝える家もなかったとされます。
戦国時代の弘治年間には飛騨守五郎左近尉が城主だったとされ、越後の上杉謙信の越中侵攻の際には舟見城に籠城し激しい抵抗を見せたものの、近隣に住む老婆が上杉方に舟見城に引き込んでいる飲み水の水源を教えた事から籠城戦の継続が出来なくなり、最後は黒部川で削られた断崖(飛騨ヶ淵)から身投げしたと伝えられています。
城下町に境内を構えている十三寺には飛騨守五郎左近尉の守り本尊だったと伝わる平安時代末期に制作された馬頭観世音菩薩立像を所有しており関係性が窺えます。
「文政元年新川郡書上申帳」には「舟見村領山ノ嶺にこれあり。南北六十間程、南の方東西十五間程、北の方東西四十間程、南の方に幅二間程長さ十五間程、北の方に幅二間程長さ四十間程の堀形御座候」と記されています。
舟見城は標高253m、比高120mの舟見山に築かれた中世の山城で、現在は舟見山自然公園として整備された事で多くの遺構は失われましたが、鉄筋コンクリート3階建ての模擬天守閣風の資料館が建てられています。
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