・古国府城は一般的に戦国時代の天正年間に神保氏張によって本城の守山城の出城として築かれたとされます。
ただし、当地は古代から良港として知られた伏木湊を見下ろす事が出来る軍事的要地で、古代の越中国府が置かれた古地として政治的にも重要視されてきた事から、前身となる城郭があった可能性があります。
神保氏張は越中国守護代神保氏の庶流である神保氏重の子供として生れ、本家である神保長職と事ある毎に対立し敵対行動が顕著となり、所領を取り上げられています。
長職が死去すると、復権を図る為に織田信長に通じましたが、上杉謙信の越中国侵攻により敗北し、上杉家に臣従しています。天正5年の「上杉家家中名字尽」には安保安芸守(氏張)と勝興寺の名が記されており、上杉家に従った事が判ります。
天正6年に謙信が死去すると、越後国内が内戦状態になった為、氏張は再び織田信長に従い、織田家の能登、越中侵攻に尽力した事から、織田家の重臣で越中国に配され富山j城の城主となった佐々成政の家臣となりその後は一門として重用されました。
天正10年に本能寺の変で織田信長が倒れた後も、引き続き佐々成政に従い、天正11年に成政が越中国平定を完遂した際にも氏張もその配下として名を連ねています。
天正12年、佐々成政は織田家排斥を目指す羽柴秀吉と秀吉に従った前田利家と激しく対立した事から、戦局を住串でも有利にする為、越中の一向一揆衆を味方に引き入れる必要がありました。その為、古国府城の敷地が一揆衆の一翼を担った勝興寺に与えられ、境内を遷した為、これをもって古国府城は廃城になったと思われます。
結局、成政は秀吉、利家軍に敗れ、その後、九州の島津領侵攻で功績を挙げた事で肥後に移封となり、氏張もそれに従い越中国を後にしています。
一方、勝興寺は新たな領主となった前田利家はじめ、歴代加賀藩主前田家から篤い庇護を受けています。
古国府城の城域は勝興寺の境内と重なる部分が多く、敷地周囲には規模の大きい土塁と空堀の一部が残されています。又、北側にも腰曲輪とそれに付随する堀跡が発見され、複数の郭があった可能性があります。
富山県:城郭・再生リスト
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