・日宮城が何時頃に築城されたのかは判りませんが、戦国時代に越中国守護代の神保長職が永禄5年に増山城に遷るまで本城として利用していたとされます。
その後は増山城の支城として機能し一族と思われる神保源七郎が城主として配されています。当時の長職は上杉謙信の越中侵攻に対抗し武田信玄や越中一向一揆衆を味方に引込み善戦したものの、結局、増山城を取り囲まれ降伏を余儀なくされます。
その後、神保家家中は親上杉派と親武田派で内乱状態となり、元亀3年には武田信玄に応じた一向一揆衆が親上杉派の神保覚広や小島職鎮、安東職張、水越職勝等が守る日宮城を急襲しています。
覚広は上杉家の家臣で越中国新庄城の城主である鰺坂長実に援軍要請するものの呉服山の戦いで上杉勢が敗北した為、孤立無援となり開城に応じ、主要な武将の多くは石動山天平寺に落ち延びています。
一向一揆衆は、白鳥城、富山城と次々と落城され神保領を席捲しています。日宮城はその後の資料で記される事が無くなった為、程なく廃城になったと思われます。
日宮城は標高20m程の笹山に築かれた中世の平山城で、北東の頂部に主郭が設けられ周囲を土塁で囲い、南西の郭とは深い堀切で区画されていました。
「越登賀三州志」によると城の周囲を水堀で囲んでいたと記されており、「越中古城記」によると、城の南側には城将だった小嶋甚助と寺嶋牛之助の屋敷があったとされます。
南東部の一角に鎮座している日宮社の境内にある大杉は推定樹齢300年以上、樹高35m、幹周8.5m、周囲には古木大木が多く、多種多様の植生が残されており日宮社の社叢全体が貴重な事から富山県指定天然記念物に指定されています。
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