・寺家新屋敷館が何時頃築かれたのかは判りませんが、江戸時代後期に編纂された「越登賀三州志」によると南北朝時代に越中国守護職を担っていた桃井直常の家臣である田中権左衛門貞行が館主だったと伝えられていると記されています。
その後の詳細も不詳ですが、貞行の後裔と思われる田中太郎兵衛が帰農し当地に住み着いたとも云われています。
一方、昭和62〜63年に行われた発掘調査によると、江戸時代初期頃まで利用されていた形跡がある事から、一国一城令で廃城になった可能性があります。
その後、神明社が開創され、現在も跡地の多くが神明社の境内や住宅地等に利用されています。
館の規模は「越登賀三州志」によると「今猶三十七、八間に二十六、七間四方の土居あり。高低自一丈至る四五尺。僅かの第迹也。」と記されています。
又、発掘調査によると、東西80m、南北50m、外周には高さ3m超の土塁と幅5m、深さ2m余りの空堀が巡っていた事が確認されています。
現在も神明社境内の東側と北側に土塁の一部が残され、地元からは「ゴロベエ山」と呼ばれているそうです。
寺家新屋敷館の跡地は貴重な事から南砺市指定史跡に指定されています。
富山県:城郭・再生リスト
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