金屋町・町並み(高岡市)概要: 慶長14年(1609)、加賀藩初代藩主前田利長の隠居城である富山城(富山市)が焼失すると、新たに高岡城が築城されました。慶長16年(1611)、利長は高岡城下の産業育成の為、鋳鉄産業が盛んだった礪波郡西部金屋村(現在の高岡市戸出西金屋)から7人(金森弥右衛門、喜多彦左衛門、藤田与茂、金森与兵衛、金森藤右衛門、般若助右衛門、金森九郎兵衛)の鋳物師を招くと千保川左岸に長さ100間、幅50間、広さ5000坪の土地を与え、金屋町が発生しました。鋳物の製作には金属を高い温度で熱して液体にした後に型に流し込むといった作業工程が必要な為、作業所が一般の町屋に比べて火事になる可能性が高い為、当時の高岡城の城下町からは千保川の対岸に町割され、城下への類焼回避の計画が成されました。
又、個々の敷地内でも道路沿い正面から主屋→中庭→土蔵→作業所と配する事で作業所で火が出た場合も類焼を防ぐ、又は類焼までの時間を稼ぎ逃避や家財の持ち出しが出来るように工夫されていました(実際は城下の方が圧倒的に火事が多く、日頃から火の取り扱いに注意していた金屋町は少なかったとされ、現在も古い町並みが残される結果となっています)。
その後、慶長17年(1612)に藤田源右衛門、慶長18年(1613)に金森與作、藤田与助、金森九郎右衛門など5カ所の吹場を建設し、税や労役を免除するなど保護政策を行った為、高岡でも鋳物業が飛躍的に発達しました。慶長19年(1614)に利長が高岡城で死去し、慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると高岡城は廃城となり多くの武士達は金沢(石川県金沢市)に引き上げました。
城下町に集まった商人達も一時、金沢や富山に散在しましたが、2代藩主前田利常(前田家3代)は高岡城の跡に高岡町奉行所を開設し、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などの施設を設置、旧城下町に多くの物資が集まるように定めて商人町として再編しました。金屋町も引き続き鋳物町として庇護され、当初は鍋や釜など日用品鉄器が中心でしたが、江戸時代後期には農機具生産や銅器鋳造など金物全般を請負ようになり、明治時代にはさらに高岡美術銅器の鋳造と発展し国際的にも名声を受けました。
現在は、多くの鋳鉄の工場や作業場は郊外に移転しましたが、金屋町には明治時代から大正時代にかけて建てられた建物が軒を連ね、千本格子や石畳など鋳物師町の雰囲気がある町並みが保全され当時の繁栄を現在に伝えてくれます。金屋町に残されている町屋は主に木造2階建て、切妻、平入り、桟瓦葺きの建物が多く格子戸や2階の袖壁なども見受けられ、中には鋳物製造の作業場やそれらの保存管理した土蔵なども残されています。
金屋町は平成24年(2012)に種別「鋳物師町」、東西約140m、南北約450m、面積約6.4ha、伝統的建造物(建築物)111棟(2棟追加)、伝統的建造物(工作物)12件、環境物件3件が、「伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの」との選定理由を満たしている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。又、金屋町を最初に町割した前田利長に感謝し、毎年、利長の命日である6月19・20日(旧暦5月20日)には「御印祭」が行われ、古式を伝える貴重な行事(祭り)として平成18年(2006)には、とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)に選定されています。
高岡市金屋町:上空画像
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