高岡市伏木(歴史)概要: 伏木は古代越中国府が設置されていた地域で、古くから越中国の中心地として開けていていました。天平14年(742)には聖武天皇の勅願により越中国分寺が建立され、天平宝字元年(757)には越中一之宮となる気多神社が勧請されました(諸説あり)。越中国は礪波郡・射水郡・婦負郡・新川郡の4郡で構成される令制国で、天平18年(746)には万葉の歌人として中央で名を馳せた大伴家持が国司として赴任したことでも知られ伏木周辺だけでなく越国内の名所で数多くの歌が詠まれ万葉集に編纂されています。
往時は越中国の行政、文化、経済の中心地として繁栄しましたが鎌倉時代に入ると朝廷の権勢が限定的となり国府が廃れると伏木(当時は亘理津)の町も衰微したと思われます。現在でも越中国府跡(勝興寺境内)や国司館跡(伏木気象資料館)、越中国分寺跡(富山県指定史跡)があり気多神社(本殿:三間社流造、こけら葺、国指定重要文化財)が鎮座しています。
中世に入ると越中守代神保氏が支配し、伏木を見下ろす守山城(二上城)を居城とし旧国府には出城として整備するなど長期の間周辺豪族として大きな影響力を持ちました。天正4年(1576)、上杉謙信の越中侵攻により一時上杉家の支配となりましたが、謙信の急死により越後に内乱が起き間隙をついて織田信長が侵攻し家臣である佐々成政が新たに領主となります。信長が死去すると成政は豊臣秀吉と対立し秀吉の越中攻めで降伏すると大きく領地が削られ新たに前田家が領主となります。
戦国時代には漁村程度となっていましたが、江戸時代に入るとと加賀藩に属し前田利長の隠居城として高岡城を築いた事で当時の高岡城の外港は城下に接する小矢部川沿いにある木町が指定され港町として整備されました。加賀藩では伏木湊を加賀河西七浦(木町、伏木、六渡寺、放生津、海老江、氷見、灘浦)として重点的に開発整備し、寛文6年(1666)には幕府からも13指定港に指定されるなど急速に発展しました。港付近には加賀藩の御蔵(伏木御蔵)が6棟建てられ小矢部川周辺(砺波平野)の年貢米や特産物などが集積され北前舟により大坂や京都に搬出され、寛文年間(1661〜1672年)には鶴屋善右衛門など廻船問屋が8軒存在していました。北前舟による海運が盛んになると、北前舟では木町まで溯上する事が出来ず、さらに小矢部川の改修により次第に木町が衰退し伏木が重要視されるようになりました。
明治初期には廻船問屋の藤井能三の尽力により三菱商会の汽船定期航路の寄港地となり経済的な中心地として重要視されました。明治時代中期以降は舟運の衰退や、近代港湾の整備、周辺が工業地域として開発などにより港町としての重要性は失われました。現在の古い町並みは明治20年(1887)の大火後に再建されたものですが、明治時代の町屋建築を中心に洋風建築や昭和初期の看板建築、土蔵造りの建物が点在する独特な町並み景観が形成されています。高岡商工会議所伏木支所(旧伏木銀行)や棚田家住宅、谷村家住宅、旧伏木測候所は景観的に優れた建物で国登録有形文化財に登録されています。
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