高岡市: 吉久・町並み

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概要・歴史・観光・見所
吉久・町並み(高岡市)概要: 高岡市の中心街から日本海側方向に離れた小矢部川と庄川の河口に位置する吉久は古くから集落が存在しましたが、江戸時代に入り日本海を利用する西廻り航路が開削されると加賀藩が重要視するようになり、さらに高岡城の城下と放生津(新湊市)とを結ぶ放生津往来の宿場町として改めて町割りされ、承応4年(1655)に吉久村に続く西側の僅かに高い土地に加賀藩の御蔵が造営され周辺の村々から蔵稼の頭振りが集められ吉久新村が開村しています。

加賀藩の年貢米の集積地として確立すると砺波郡と射水郡から産出された米は小矢部川や庄川流域から舟運や馬によって吉久に集められ北前船の寄港地である伏木湊から大坂や京都の大消費地に廻米として運ばれるようになった為、加賀藩は承応から寛文年間(1652〜1673年)に吉久詰米奉行を派遣、御蔵(吉久御蔵:間口4間、奥行30間、6戸前、こけら葺5棟、板葺1棟、合計6棟、足軽2人が警備、砺波郡と射水両郡の御蔵の中では最大規模)も設置、一般的の御蔵番には近隣の農民が抜擢されていましたが、吉久の御蔵番には足軽などの侍代官が派遣されました。さらに吉久の整備が進むと文化元年(1804)から文化3年(1806)には吉久新村の北側の荒れ地が開拓され草高98石の加増となり、さらに小矢部川から中伏木領の東縁沿いに年貢米を乗せた舟運を引き込む堀川や船溜まりが開削されました。当時の川湊は小矢部川から引き込んだ南北380m、幅15〜20mの堀川が掘削され270坪(約891.6u)の舟溜まりが造られていました。

明治維新後にはさらに1棟の御蔵が増えていましたが、明治4年(1871)に廃藩置県が執行され加賀藩が廃藩となり、租税制度も改変されると次第に吉久の重要性が失われ御蔵も随時破却されました。さらに近代交通網の整備により舟運が衰退すると堀川や船溜まりも埋め立てられました。しかし、大規模な近代化が行われなかった事で、数多く町屋建築が軒を連ねる古い町並みが現在でも見られ、平成17年(2005)には名称「吉久の伝統的町並み」として富山県主催の「うるおい環境とやま賞・土の賞」を受賞しています。

【吉久・町並みの特徴】−現在も高崎市吉久には江戸時代末期から昭和初期の町屋建築が軒を連ね良好な町並みが残され、建物は概ね、木造厨子2階建(2階部分の軒が通常の2階建より低い)、切妻、桟瓦葺、平入、1階下屋庇と2階屋根軒先は出桁造りで大きく前に張り出し、外壁は1階部分は全面格子、2階部分が真壁造り、白漆喰仕上げ、外壁両側には防火、類焼防止の袖壁が付いています。町並みの周囲が工場地帯である為、歴史的経緯を知らない人から見ると何とも威容な雰囲気で、文字通り時代から取り残されたと思う程、古い町並みが残されちょっとした感動を覚えます。中でも能松家住宅主屋(明治時代建築:木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、間口4間半、奥行7間半、国登録有形文化財)と有藤家住宅主屋(大正時代建築:木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、間口6間半、国登録有形文化財)、丸谷家住宅主屋(明治時代建築:木造平屋一部2階建、切妻、桟瓦葺、平入、国登録有形文化財):土蔵(大正時代:土蔵造2階建、切妻、国登録有形文化財)は高崎市吉久を代表する町屋建築の遺構として貴重とされます。

高岡市吉久・町並み:写真

吉久町並み
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