五箇山の名称の由来は赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷で構成されているからとも云われ、周囲が山々に囲まれている事から古くから隔絶した地域でした。 その為、平家落人や長慶天皇の在所伝説などが色濃く残り、加賀藩の流刑場所(寛文7年:1667年から約200年間で、約150人の罪人が五箇山で刑に服しました。現在でも流刑小屋が残され、富山県指定有形民俗文化財に指定されています。)にもなりました。江戸時代に入ると秘匿性から加賀藩による焔硝生産が盛んになり各家庭でも秘密裏に 作業が行われました。又、養蚕業の発展と豪雪、特異な家族制度などが原因で急勾配で大型切妻茅葺屋根を持つ「合掌造」と呼ばれる独特の建築が生まれました。昭和に入ると家族制度が薄れ、養蚕業も衰退、交通網が整備された事で次々と合掌造の建物は失われましたが相倉集落と菅沼集落は奇跡的に当時の景観を保持しており「越中五箇山相倉集落」、「越中五箇山菅沼集落」として昭和45年(1970)に国指定史跡に指定、平成6年(1994)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定、平成7年(1995)には「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産リストに登録されています。
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