高岡市: 恒性皇子墓

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概要・歴史・観光・見所
恒性皇子墓(高岡市)概要: 恒性皇子(大覚寺門跡)は後醍醐天皇の皇子で、元弘の変(1331〜33)で倒幕運動が失敗に終わると天皇は隠岐の島に配流となり、皇子は幕府方に捕らえられました。その後、恒性皇子は元弘2年(1332)に当時の越中守護職、名越時有に預けられ放生津城(越中守護所)の支城である二塚城(現在の高岡市二塚)に幽閉となりました。元弘3年(1333)、後醍醐天皇が隠岐から脱出し挙兵すると、その報を聞いた、出羽、越中の討幕軍は恒性皇子を旗頭にして挙兵する動きを見せた為、鎌倉幕府執権北条高時は先手を打って時有に命じて皇子を毒殺しました。その際、恒性皇子の侍臣である日野直通と勧修寺家重、近衛宗康も斬首され、さらし首とされました。討幕軍が到着した時には既に皇子は亡くなっていましたが、そのまま二塚城は攻略され、放生津城も落城、名越家も事実上滅亡、その数ヵ月後には鎌倉幕府も滅亡しました。皇子は火葬しこの地に葬られたとされ、侍臣3人がさらに首になった場所は「三ヶ首」、火葬された場所を「皇子三昧」と云われ皇子縁の品々は近くにある浄誓寺に収められました。その後は長い年月が立ち伝承のみ伝わっていましたが明治42年(1909)の東宮殿下(大正天皇)北陸行啓に際して宮内省の調査が行われ、伝承と合致する事が確認された為、明治45年(1912)に宮内省告示第一号により皇子の墓に定められています。

恒性皇子墓:写真

恒性皇子墓
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