二上射水神社(高岡市)概要: 射水神社は富山県高岡市二上に鎮座している神社です。二上射水神社の創建は不詳ですが奈良時代以前に二上神が勧請されたのが始まりと伝えられています。当時は背後にある二上山自体を神格化してその麓に鎮座していましたが養老元年(717)に勅令を受けた行基菩薩が養老寺を開山し射水神社の別当にしたことで神仏混合の神社となりました。
当初から中央にも知られた存在で宝亀11年(780)に編纂された続日本紀では従五位下、延暦14年(795)に編纂された日本後紀では従五位上、承和7年(840)に編纂された続日本後紀では従四位上、斉衡元年(859)に編纂された日本文徳天皇実録では従三位、貞観元年(859)に編纂された日本三代実録では正三位にそれぞれ列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載されています。
いずれも当時の越中国では高瀬神社と同階で最高位にあたる為、越中国一之宮(現在富山県内では越中一宮を称する神社が射水神社の他、気多神社、高瀬神社、雄山神社があります)。とされ、越中国守となった大伴家持も度々和歌に詠まれています。
承平年間(931〜938年)の兵火により社殿、社宝、記録などが焼失して衰退、天暦年間(947〜957年)に空也が再興、天正年間(1573〜1592年)再び兵火により焼失します。前田利長が領主(守山城の城主)となると崇敬社となり二上山一帯が境内として安堵され社殿の再建が行われ、歴代前田家から庇護されました。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治8年(1875)には高岡城本丸跡に遷座しましたが二上村の氏子からの反対などもあり二上山麓の旧社地には射水神社の分社として二上射水神社が残され村社に列しました。戦後、射水神社から独立し、「越中総社射水神社(二上射水神社)」と正式名称を変えています。又、参道沿いには別当寺院だった養老寺の一坊の流れを汲む慈尊院があるなど神仏習合の名残が見られます。
二上射水神社の御神体である木造男神坐像(平安時代後期作:像高121p、欅材、一木造)が昭和43年(1968)に国指定重要文化財に、特殊神事である「二上射水神社の築山行事」が昭和57年(1982)に富山県指定無形民俗文化財(とやまの祭り百選)に、「越中総社射水神社築山」が昭和35年(1960)に高岡市指定有形民俗文化財にそれぞれ指定されています。二上射水神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入り、間口3間、奥行き4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り素木板張り(欄間部は白漆喰仕上げ)。本殿は部分的に覆われている為不詳ですが流造、桟瓦葺き。祭神:二上大神。
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