五箇山(歴史)概要: 五箇山は古くは平村、上平村、利賀村の3村を五ヶ山と称していたものを、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の谷に囲まれてた集落を5つに区分して五箇谷間と呼ぶようになり五箇山の地名が生まれました。飛騨国、越中国の国境に接していた為、両国の文化の交流の場であると同時に周囲を山で囲まている隔絶した地勢から独自の文化が継承されました。その為、五箇山には倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲(源義仲:源頼朝・義経の従兄弟)に敗れた平家の落人が住み着いた伝説や南朝方の長慶天皇が落ち延びた伝説などが残っています。
平家伝説は平安時代末期の寿永2年(1183)5月11日に行われた治承・寿永の乱の1つである倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲を大将とする源氏軍が、平維盛率いる平家軍に大勝、これにより平家の凋落が顕著となり多くの平家や一門が四散しています。五箇山に位置する相倉集落の有力者である図書家は平家の落人が祖とも云われています。長慶天皇は後村上天皇第1皇子で南朝の第3代天皇とされ、南朝が不利になると五箇山に潜幸し当地に没し瑞願寺境内背後の天王山に葬られたと伝えられています。
中世に入ると本願寺の影響力を受け五箇山にある各集落には念仏道場が設けられるなど深く浸透し一向一揆には多くの住民が参加、漆谷念仏道場には「血染めの名号」が伝わっています。戦国時代に入り鉄砲や大砲が大量に普及すると火薬の原料である焔硝の産地だった五箇山一帯は軍事的に重要視され加賀藩が統治するようになると組織的に整備されます。又、五箇山は他の地域から隔絶した環境から秘密保持が容易な事から藩札の制作や罪人の流刑地にもなっていました。
五箇山の冬は全国的な豪雪地帯なところから茅葺の急勾配屋根が大きな特徴の合掌造り民家が発展し、現在でも相倉集落や菅沼集落では当時の風景が色濃く残り"越中五箇山相倉集落"、"越中五箇山菅沼集落"として昭和45年(1970)に国指定史跡に指定、平成6年(1994)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定、平成7年(1995)には岐阜県の白川郷と共に"白川郷 五箇山の合掌造り集落"として「世界の文化及び自然遺産の保護に関する条約」に基づく世界遺産リストに記載されています。
五箇山の文化財(集落・建築)
・ 相倉集落−国指定史跡−重要伝統的建造物群保存地区−世界遺産
・ 菅沼集落−国指定史跡−重要伝統的建造物群保存地区−世界遺産
・ 村上家住宅−江戸中期−合掌造、茅葺、高さ10.9m−国指定重要文化財
・ 岩瀬家住宅−江戸後期−合掌造、茅葺、高さ14.4m−国指定重要文化財
・ 羽馬家住宅−寛文年間−合掌造、茅葺、高さ9.3m−国指定重要文化財
・ 上中田念仏道場−文化4年−入母屋、茅葺、妻入−富山県指定文化財
・ 寿川念仏道場−文政4年−入母屋、茅葺、妻入−富山県指定文化財
・ 白山宮本殿−文亀2年−一間社流造、板葺、見世棚造−国指定重要文化財
・ 行徳寺鐘楼門−18世紀−入母屋、茅葺、一間一戸−南砺市指定文化財
・ 行徳寺庫裏−江戸時代末期−合掌造、茅葺−南砺市指定文化財
・ 圓浄寺鐘楼堂−弘化3年−入母屋、茅葺、外壁付−南砺市指定文化財
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