富山市八尾町(歴史)概要: 八尾町は井田川と別荘川の間にある河岸段丘に位置し、天文20年(1551)桐野山聞名寺が現在地に移されその門前町として発展した町です。さらに天正4年(1576)、葛城氏が神官となり現在地に八幡社(蓮勝院)を移し2つの門前町とし町が形成されていきました。
聞耳寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、室町時代には越中国に浄土真宗が盛んになると濃飛越三州の中本山の格式を得て、勝興寺(高岡)、瑞泉寺(井波)、善徳寺(城端)と共に本山直属の越中国4大寺院に数えられるなど大きな影響力を行使するようになります。歴代領主である神保や斎藤氏が庇護し、門前町も発展したものの天正11年(1583)に領主だった斎藤氏と越中に侵攻してきた佐々成政との戦いで大きな被害を受けています。
豊臣秀吉の時代にようやく復興し米屋少兵衛が町立ての許可を得て八尾町の町並みの原形を形成、さらに江戸時代、富山藩(藩庁:富山城)が立藩すると藩内唯一の交易市場町として整備保護した事で、特に蚕糸、和紙、薬草など多くの物資が集まるようになり市場町としても発展し「富山藩の御納戸」との異名がありました。
八尾町は内陸部にある飛騨地方(現在の岐阜県)と日本海を結ぶ、飛騨街道と二ツ屋街道の両街道に接続可能な場所に位置し、富山城下や北陸道(北国街道)にも街道が延びていた事から経済的な発展の要素となり、文化10年(1813)には八尾の蚕種が全国の四分の一を占めました。又、和紙もその品の良さから八尾和紙として知られ障子紙、高熊紙、松倉紙などを生産し天明8年(1788)には紙問屋が34軒もあったと言われています。
聞耳寺は明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により、山門や太子堂、鐘楼などが破棄され廃寺寸前まで追い込まれましたが本堂は何とか残されました(本堂に施された椿図浅彫欄間は旧八尾町指定文化財)。又、中世の真言宗や領主との係わり合いの深い文書を数多く所有しており、その内95点が「聞耳寺文書」として昭和40年(1965)に富山県指定文化財に指定されています。
現在は多くの産業が衰退しましたが八尾町中心部には古い町並みが残り昭和61年(1986)には"八尾町道諏訪町本通り"が日本の道100選に選定され、平成8年(1996)に「残したい日本の音風景100選」にも選定されています。
【おわら風の盆】−おわら風の盆は旧八尾町(富山市)で毎年9月1・2・3日に行われ、「越中おわら節」に合わせて老若男女が無言で踊る独特な行事として知られ、平成18年(2006)に「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定されています。
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