富山市岩瀬(歴史)概要: 岩瀬は古くから日本海側の主要港として知られ、延長5年(927)に編纂された延喜式でも名が見られ、室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集"廻船式目"にも名を連ねました。
載されている港は博多津(福岡県福岡市)・堺津(大阪府堺市)・安濃津(三重県津市)の3津と三国湊(福井県坂井市)・本吉湊(石川県白山市)・輪島湊(石川県輪島市)・岩瀬湊(富山県富山市)・土崎湊(秋田県秋田市)・十三湊(青森県五所川原市)の7港である事から岩瀬湊は「三津七湊」、「日本10大港湾」として認識されました。
江戸時代に入ると富山城の外港として整備され、神通川舟運の起点や北前船の寄港地としても多くの物資が運び込まれていました。
当初は現在より西側に位置し神通川の河口左岸にあった事から西岩瀬と呼ばれ富山藩の重要港(富山藩三宿:西岩瀬、四方、八尾)として繁栄していましたが、万治3年(1660)の暴風雨によって神通川が大洪水を起こし西岩瀬湊は大破し川筋が変わり、富山藩領から本藩である加賀藩(石川県金沢市)の支配下に入り、越中国内の加賀藩領の物資の最大の集積場として改めて町割りが行われました。
特に五大家と呼ばれる馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家の廻船問屋は繁栄を極め大きな影響力をもつようになります。
歴史が感じられる岩瀬の街並み画像
飛騨国の特産物や、流域の年貢米などが越中東街道や神通川舟運を使って集められ、一端荷揚げされてから再び北前舟に積み変えられ京都や大坂に運ばれました。
逆に、蝦夷地や日本海沿岸の特産物や海産物が岩瀬湊で積み下ろされ、消費地だった富山城の城下町や飛騨高山(岐阜県高山市)にまで越中東街道を利用し運ばれていきました。
特に江戸時代には加賀藩に属していた為、加賀藩が指定した加賀河東七浦(東岩瀬、水橋、滑川、魚津、生地、泊、境)の1つとして重要視され、藩の御蔵が設けられていました。
江戸時代末期から明治時代初期が最盛期で、港には数百隻の舟が出入し、北陸街道には海運により莫大な利益を得た数多くの廻船問屋や豪商達が屋敷を構えていました。
岩瀬街並み:上空画像
又、岩瀬は加賀藩の参勤交代で利用する北陸街道(北国街道)沿いにあったことから藩主の前田家が宿泊や休息で利用する御旅屋が設けられた他、多くの旅人が宿場町として利用しました。
明治時代に入ると街道制度が廃止され、汽船や鉄道、国道などの交通網の発達や港湾の整備が行われた事で舟運や北前舟が衰退し経済的な優位性が失われましたが「北前船廻船問屋」森家(国指定重要文化財)や馬場家(国登録有形文化財)をはじめ、多くの町屋が軒を連ねる古い町並みが残され当時の繁栄ぶりを窺うことが出来ます。
明治6年(1873年)の岩瀬大火により多くの民家が焼失した為、現在見られるものは明治時代以降のものが殆どですが、伝統的な形式を踏襲した為に良好な町並みが見られます。
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