南砺市井波町(歴史)概要: 井波町の歴史は古く、平安時代初期には東大寺領(杵名蛭荘)の荘所が置かれ、集落には条里制に準じる計画がなされるなど早くから開けていた地域で、延長15年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社の記載がある越中国一宮(現在越中国一宮と称する神社は高瀬神社の他、射水神社、気多神社、雄山神社があります。)高瀬神社も勧請されました。明徳元年(1390)には綽如上人が瑞泉寺を開山すると寺運が興隆し井波町は門前町(寺内町)として整備発展します。
室町時代中期になると瑞泉寺は北陸地方における一向宗寺院の中心的立場となり周辺領主とも敵対し境内を城塞に改修し武装化を強化、永禄年間(1558〜1569年)には一向宗徒を引き連れ上杉謙信とも戦っています。天正9年(1581)佐々成政との兵火により瑞泉寺だけでなく門前町も大きな被害を受け一時衰退しますが、成政が豊臣秀吉に敗れると前田家所領となり、以後、前田家の庇護により瑞泉寺が再興され改めて門前町が整備されます。
その際、加賀藩(石川県金沢市:本城−金沢城)は藩の御抱え大工10人を井波に派遣した事で、技術の伝承が図られ、さらに、京都の本願寺から派遣された京都の宮大工前川三四郎を招いた事で彫刻師や棟梁から当時の最先端の技術を学ぶ事が出来た事から井波彫刻、井波建築に大きな影響を及ぼしました。
井波町から数多くの社寺建築を手掛ける棟梁や木彫の名工などを輩出するようになり後に井波町は彫刻産業全国一の規模を誇るまでに発展しました。特に番匠屋9代目田村七左衛門は井波彫刻の元祖とされ、井波出身の名工が各地には派遣され寺社や祭りの屋台、山車の彫刻を手掛けた事で井波彫刻の名声は全国に広がりました。又、江戸時代後期頃から養蚕が盛んになり、絹織業や蚕種業などにも波及した事で一大産地となり、文久元年(1861)には井波町の蚕業者達が蚕の霊を弔う為、蚕堂(南砺市指定有形文化財)を造営しています。
さらに、周辺地域の経済の中心として在郷町として役割を持ち、五箇山との中継ぎの拠点(谷口集落)としても重きを成しました。現在も、山門に至る緩やかな坂の両側には町屋建築が軒を連ね門前町の雰囲気が感じられる町並みが残されています。
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