本法寺(富山市八尾町)概要: 本法寺の創建は鎌倉時代末期の正和5年(1316)、日順(日印の弟子)が開山したのが始まりと伝えられています。本法寺は当初、井田村に境内を構え法華宗の北陸道総末頭本山として大きな影響力がありました。北陸地方布教の中心道場となったことで隆盛を極め最盛期には境内に坊舎42字を擁し、末寺は30余ヶ寺を数える大寺だったそうです。
寺宝である絹本著色法華経曼荼羅図は室町時代の明応6年(1497)に室町幕府10代将軍足利義材が越中守護職の畠山政長を頼り越中国放生津に下向した際、政長の家臣で現地を采配していた越中守護代神保長誠が義材の政務復帰を祈願して奉納したもので、安産に御利益があるとして信仰の対象になると江戸幕府10代将軍徳川家治が側室が懐妊した際に江戸城に取り寄せ安産祈願が行われています。
本法寺は戦国時代に入ると当時の領主斎藤氏から庇護され城下に近い城生村に移され、斎藤氏が衰退すると樫尾に移されました。江戸時代に入ると富山藩(藩庁:富山城)前田家から庇護され、明和年間(1764〜1772年)に現在へ移っています。
法華宗の北陸道総末頭本山だった本法寺の本堂
本法寺の境内は広大で飛騨の匠による名建築が軒を連ねる古寺特有の雰囲気が漂っています。山門は寛政6年(1794)から10年の歳月の後竣工したもので、規模だけでなく屋根を支える力士像や龍、鳳凰といった彫刻が施された重厚な建物です。鐘楼堂は天保2年(1832)に建てられたもので入母屋、桟瓦葺きの重厚な屋根の下には均整のとれた木組や壁一面に施された彫刻、高欄に巻き付いた4頭の龍など見所の多い建物です。山号:長松山。宗派:法華宗陣門流。本尊:三宝尊。
本法寺の文化財
・ 絹本著色法華経曼荼羅図(21幅)-鎌倉時代末期-国指定重要文化財
・ 絹本著色法華経曼荼羅図(1幅)-鎌倉末期(前田利次が後補)-富山県文化財
・ 法華経曼荼羅図古表具(一括)−寛文年間−富山市指定有形文化財
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