二ツ屋街道(八尾町〜河合町)

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【二ツ屋街道】−二ツ屋街道は富山県富山市八尾町と岐阜県飛騨市河合町を結ぶ街道で、古くから越中国(富山県)と飛騨国とを結ぶ経路の1つとして重要視されました。特に日本海側で産出される塩や海産物(鰤など)、米(登せ米)などがが二ツ屋街道を通して内陸部にまで運ばれ「塩の道」でもありました。江戸時代初期の加賀藩領の時代には越中側の原山から金山が発見され100軒余りの鉱山町が整備され繁栄しましたが、その後産出量が激減して閉山となっています。国境争いも激しく富山藩と飛騨高山藩の藩境でもあった楢峠を境にして激しい争いがあり、結局幕府の裁定を仰ぎ飛騨高山藩側の勝利となっています。基本的には参勤交代では利用されませんでしたが、嘉永6年(1853)に富山藩10代藩主前田利保が金剛堂山に登拝した際に二ツ屋街道を利用し庵谷村で宿泊したとされます。安政5年(1858)の飛越地震では津川断層を震源にマグニチュード7〜7.1の大地震が発生、これにより日本三大崩れに数えられる大鳶崩れにより、本筋だった越中東街道越中西街道の経路が壊滅状態となり、比較的軽微だった二ツ屋街道が早急に整備され代替道として利用されました。二ツ屋街道には楢峠(標高:1220m)などの難所が多く豪雪地域を横断する事から、現在でも冬季には通行止めの区間も多く、明治時代以降近代交通網が整備され二ツ屋街道が利用されなくなると、宿泊や休息など半宿半農を生業としてきた小さな集落は次々と廃村となり街道筋から失われていきました。

【八尾町】−八尾町は二ツ屋街道の起点になった町で、北国街道(北陸道)と飛騨街道(越中東街道・越中西街道)、本城である富山城の城下町への道も開かれていた事から物資の集積場として大きく発展しました。元々は浄土真宗聞名寺の門前町として整備された町でしたが、物流を通しての交易が盛んになると交通の要衝として軍事的、経済的にも重要視され戦国時代には二ツ屋街道を見下ろす要所である「上の山」の山頂(標高:592m)に尾畑城が築かれ、現在でも曲輪、土塁、堀、櫓台などの遺構が残り平成2年(1990)には富山市指定史跡に指定されています。江戸時代に入ると富山藩からも保護された事で、「富山藩の御納戸」の別称が付く程に藩内随一の交易市場町として発展し、多くの人が行き交いました。現在でも街道筋には良好な町家(町屋)建築が軒を連ね往時の繁栄を偲ばせる町並みが残されています。

【八尾町庵谷】−庵谷は楢峠を挟んで越中国側に位置し、国境直前の集落だった事から重要視され江戸時代にが富山藩の藩主前田家は当地に口留番所(切詰関所)を設置して、人物改めや荷物改め、税の徴収などが行われました。

【河合町二ツ屋】−二ツ屋は楢峠を挟んで飛騨国側に位置し、国境直前の集落だった事から重要視され江戸時代初期の高山藩の藩主金森家は当地に口留番所を設置して、人物改めや荷物改め、税の徴収などが行われました。

【河合町角川】−角川は二ツ屋街道と越中西街道が合流する交通の要衝として重要視されました。

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