前田利與

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前田利與(大法寺:梵鐘)
【 概 略 】−前田利與は富山藩4代藩主前田利隆と山田久衛の娘との子供として生まれました。宝暦12年(1762)、兄で5代藩主前田利幸が死去すると嫡男である前田利久が生まれたばかりの乳飲み子だった事から末期養子として利與が家督を継ぎ富山藩6代藩主に就任しています。2代藩主前田正甫以降、富山藩では薬の製造販売が盛んなり藩を挙げて保護育成してきましたが、明和2年(1765)に利與は反魂丹役所を設立し「薬種の仕入れ代金を貸すなどの資金援助」、「売薬人の初出願の受付および藩への取次」、「諸通達の交付、統制および罰則」、「賦課金の徴収、出納簿の作成」などを組織的に出来るように便宜しました。

明和4年(1767)、利與は初代前田利次、2代前田正甫、3代前田利興、4代前田利隆、5代前田利幸の追善供養をする為、菩提寺である大法寺に梵鐘を寄進、現在でも健在で「厄除け招福の梵鐘」の異名があります。常願寺川は度々氾濫し藩庁がある富山城の城下町や周辺の村々、田畑が大きな被害を受けた為、明和6年(1769)に水防林として松苗を約6haに渡り植栽しています。その後、洪水や戦時中の供出などで多くが失われましたが現在も100本程が残され「殿様林」と呼ばれています。

安永2年(1773)、藩内の人材育成を目的として藩校である「広徳館」を富山城三之丸東側の総曲輪に創立、幕府の学問所である昌平黌から講師を招き高度な学問を学ぶ事が出来るようにしています。広徳館は本藩である加賀藩の藩校よりも20年も早く創立しており利與の先見の明が窺え、自身も学問に興味があったようで数多くの漢詩を残し「東渠公詩集」にまとめられています。安永6年(1777)に甥である前田利久が成人(15歳)になった事から家督を譲り、寛政6年(1794)に死去、享年58歳、戒名:竜徳院殿天沢良恩大居士、富山前田家の墓域である長岡御廟に墓碑が建立されています。寛政10年(1798)には利與の側室である白仙院が長慶寺(五百羅漢)に「桜谷八景」を奉納し柿本人麻呂像を寄進しています。

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