神保長職

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神保長職(放生津八幡宮)
【 概 略 】−神保長職は誕生年等は不詳で、後年、神保惣領が継承する宗右衛門尉を名乗っていた事から神保慶宗の子供である小法師と推定されています。父親と推定されている神保慶宗は越中国守護職の畠山氏から独立を図ったものの永正17年(1520)自刃に追い込まれており、当時の神保家はかなり窮地に追い込まれていたようです。跡を継いだと思われる長職は享禄4年(1531)に発生した享禄の錯乱に守護軍に参陣している事から、畠山家から許されある程度の兵を動かせる程の力があったと思われます。天文12年(1543)頃には越中国を2分する程勢力が回復し新たに富山城を築城すると、松倉城の城主椎名長常と激しい闘争が行われています。

天文13年(1544)、畠山氏の仲裁により一応停戦、その後は領内の整備を行ったと思われ天文14年(1545)には玉永寺の宝寿に制礼を発布し天文23年(1554)には寺領を安堵しています。永禄2年(1559)再び椎名領に侵攻、椎名康胤は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)に援軍を要請した事で形成は大きく逆転しました。永禄3年(1560)には上杉軍により富山城が落城、長職は増山城に撤退し交戦を続けたものの畠山氏の要請を受け停戦しています。永禄5年(1562)には本覚寺を現在地に遷し寺領を寄進、詳細な資料はありませんが長職の菩提寺だったと云われています。又、兵火により焼失した放生津八幡宮の再興もこの時期に行われています。

その後も上杉軍との交戦は続いたものの永禄5年(1562)に降伏し射水郡・婦負郡以外の領地は取り上げられています。その後は親上杉方と行動した事から、反上杉を貫いた嫡男神保長住と対立しこれを退けたものの、今度は織田信長に誼を通じた事から元亀2年(1571)に再び反上杉となっています。死没年は不詳ですが、元亀2年(1571)以降記録で見られなった事から程なく亡くなったと推定されています。

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