長岡御廟(富山市)概要: 長岡御廟は旧富山藩主前田家歴代の廟所です。この地は富山藩初代藩主前田利次(加賀藩初代藩主前田利長次男)が居城を築こうとした場所とされ、標高80m、眼下に日本海、神通川を望め背後に呉羽丘陵(最高所は城山の標高145.3m)が控える攻めるに厳しく、守るに優しい要地で経済的にも発展が望めましたが、経済難などの理由から築城を諦め、前田利長の隠居城の跡地である富山城を居城として整備しました。
延宝2年(1674)、利次が亡くなると跡を継いだ2代藩主前田利甫は利次が兵学に優れ当地での築城を念願としていた思いを強く感じ、御廟地としました。
延宝3年(1675)には利次の菩提寺である光厳寺の末寺である真国寺(曹洞宗)を墓守とし創建し御廟の祭祀や管理を行わせました。
約3万uの境内には初代利次から12代利声までの墓を、正室や側室等の墓が取り囲み参道には家臣達が寄進した石灯籠537基が建ち並び、江戸時代にはうら盆の7月7日から5日間にわたり「迎え火」が灯され幻想的な雰囲気が醸し出されていたそうです。
富山前田家当主や一族が鎮まる長岡御廟
当時は墓域全体が土塁で囲われ、その上部に柵、前面には堀が設けられ厳重に管理され参道には537基の石灯籠が建立されていましたが、明治時代中期になると475基となり明治31年(1898)の境内整備により堀は埋め戻され土塁の一部が崩されました。
前田利次は曹洞宗の光厳寺が菩提寺でしたが利甫は日蓮宗を信仰していたことから大法寺を菩提寺と定めた為、3代藩主以降は1代毎に光厳寺と大法寺を交代し菩提を弔うことになり、御廟の配置にも影響しているとされます。
中央には初代利次を中心に4代利隆、5代利幸、8代利謙、9代利幹、10代利保、11代利友、12代利聲、参道北側には2区画あり3代利興、7代利久と2代正甫、6代利與の墓碑が建立されています。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され御廟の正面に大きな鳥居がある独特な境内となっています。
富山市:神社・仏閣・再生リスト
|