前田利興

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前田利興:概略
【 概 略 】−前田利興は延宝6年(1678)に富山藩2代藩主前田正甫と貞性院(須磨:加藤某の娘)の子供として生まれました。長兄である主税が延宝4年(1676)の幼少時に天昇していた事から、宝永3年(1706)に正甫が死没すると2男ながら家督を継ぎ富山藩3代藩主を就任しています。宝永5年(1708)には於保多神社を現在地に遷座し拝殿と本殿を造営しています。富山藩は初代前田利次の時代から慢性的な財政難だった事から利興は早くから藩政改革を着手したものの大きな成果が得られず、家臣60名が富山藩を離れています。

正徳2年(1712)、6代将軍徳川家宣の死去に伴い、正徳3年(1713)に前田利興は弘前藩5代藩主津軽信寿と共に徳川家の菩提寺である増上寺(東京都港区芝公園4丁目)方丈の普請を命じられています。利興は時服十五を賜り方丈寺家引直にも参加、徳川家宣の霊廟である文昭院殿霊廟の宝前には鋳物師である宇田川藤四郎重次作の青銅製燈籠1対を奉納しています。正徳4年(1714)には居城である富山城の本丸が出火元となり大きな被害を受け、以後、本丸が整備される天保3年(1832)まで東出丸を藩主の居館として利用しています。

享保2年(1717)10月、富山藩の藩士で料理に精通していた吉村新八が鮎の鮓を試作した所、余りにも出来が良かった事から前田利興に献上しました。利興も大変気にいり幕府の献上品にする事を思い立ち小塚将監(宝永7年に家老職に昇進)に命じました。小塚将監は野瀬竹庵と吉村新八とで鮎の鮓の製法を確立し閏10月13日に幕府へ献上、これが現在富山県の名産とされる鱒寿司の発祥起源としています。

享保8年(1723)、富山城の石垣が約16間半分が崩壊し石垣が水堀に水没、この改修工事で1万7千石の借財を生まれ益々財政が逼迫しています。一方、放生津潟や久々江野では新田開発が進んでいます。享保9年(1724)、突然利興は江戸藩邸内の土蔵に引き籠り江戸城に参勤する事もしなくなった為、それを重く見た本藩である加賀藩の藩主前田吉徳は利興を強制的に隠居させ弟で養子ある前田利隆を富山藩4代藩主に就任させています。享保18年(1733)死去、享年56歳、戒名:安詳院殿青山日高大居士、富山前田家の墓域である長岡御廟に墓碑が建立されています。

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