前田利幹

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前田利幹(於保多神社)
【 概 略 】−前田利幹は明和8年(1771)、大聖寺藩5代藩主前田利道と喜勢(井上氏)との子供として生まれました。享和元年(1801)に富山藩8代藩主前田利謙が死去すると子供である前田利保が幼少だった為、養子として富山前田家の家督を継ぎ富山藩9代藩主に就任しています。

享保2年(1717)に谷村で鷹狩を行った際には伝三郎と子供である伝四郎の孝行話を聞き及び、両者を聞名寺(富山県富山町八尾町)に呼んで表彰しています。同年には飢饉に備えて備蓄米を貯蔵する恵民倉を富山町に御蔵三か所設置しています。文化7年(1810)には富山城の鬼門鎮守として八幡神社を創建、当初は現在の城北町に鎮座していましたが、明治45年(1912)に千歳神社の境内に遷座し相殿となっています。文化年間(1804〜1817年)には富山藩初代藩主前田利次の御霊を祭る国玉社を創建し、明治6年(1873)に於保多神社に合祀されています。

天保3年(1832)、鷹狩で立山町泊新村を訪れた際、佐々成政を祭る成正稲荷神社の由来を聞き及び、社号を「浄正神社」に改め社殿を再建しました(明治4年:1877年に泊の宮とと合祀し一夜泊稲荷神社に社号を改めています)。天保6年(1836)、鎌倉村の田中八郎兵衛が身の丈一丈九尺八寸(6m)、胴まわり二升樽(直径20cm)、胴から手足が生える大蛇を退治し、その話を八郎兵衛から直接聞いた利幹は大変喜ばれ、後日、大蛇退治を描いたを墨絵を八郎兵衛に授けたとされます。

文化元年(1804)に富山城の城下で大火災が発生すると、文化2年(1805)利幹の命により町屋の軒下を掘り起こし30カ町32カ所に用心井戸が設置されています。前田利幹は慢性的な財政難を解消する為、豪商から出資を募り大久保野などの新田開発を行い、高値で取引される商品作物の奨励しています。しかし、失敗する事も多く、天保4年(1833)には財政再建の専門家である石田小右衛門を招いたものの、それでも大きな成果を挙げる事は出来ませんでした。又、天保2年(1831)には富山四ツ屋が出火元となり城下や富山城の三の丸などが焼失、天保3年(1832)には幕府の許可を得て富山城の修築を行っています。

天保6年(1835)隠居、天保7年(1836)死去、享年66歳、戒名:霊照院殿建中日雍大居士、富山前田家の墓域である長岡御廟に墓碑が建立されています。

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